連載開始です。
昨日も書きましたとおり、拙作『sea and dust』での更新です。
嫌でなければ付き合ってやっていただければ幸い至極。
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『sea and dust』 1/ 霊
海と山、どちらが好きかと訊かれれば、自分は迷うことなく海と答えるだろう。
地球に広がる、塩水の巨大すぎる水溜り、海。でも自分の好むそれはよく旅行会社のコマーシャル・メッセージに耳にするような青い海とか、白い砂浜とかそういうきらびやかで飾り立てられた表現で言い表される大層なものではなくて。
また、もっと言うならば、透き通っているわけでも、さわやかな潮風薫るブルーでもない。むしろそんなさわやかな潮風を運び香らせてくるイメージなどとは正反対の、木々生い茂る山のように森のように、生育しきった磯の海草たちのこびりついた色をその内側へと溶かした、深くて底の見えない、くどいくらいに濁ったひたすらに濃い緑色だ。
少なくとも自分にとって子供のころからごく近くにあり、目で奥底を覗き見て耳で揺れる水面の音を聴いて鼻で磯臭い匂いをかいでいたのは、そんな海であったから。
そう。
ちょうど今、潮風と経年劣化に汚れくすんだ透明度で、外界と船内とを区切っている丸窓から見える、灰色じみた消え辛い泡を航跡に残し後方に流れていく、広い海原と同じように。
*
──そうやって、定形のない水面を見ながら自分はこの島にきた。そして今は島の側から、己が渡り、やってきた海をみている。
今年の夏は、帰らない。大学一年生の緒方守が両親の暮らす福岡の実家へとそう電話口で告げたのは、ほんの四十時間ほど前のことでしかない。この島に到着してからは、二十四時間も経っていないのだ。
まだ十八歳──この十二月でようやく十九歳の青年は、髭を剃った後のつるつるになった顎を撫でながら、センチになりつつある自分の、それでいて容易く行動を起こすフットワークの軽さに我ながら呆れる。特にこれといった明確な理由もなく。ただ「久しぶりに行ってみるか」程度の感覚でなんとなくやってくるというような人間も、過疎化の進み本土からも遠いこの島にはそうそういるものでもないだろう。
だが親元に帰るという選択肢がなくなってすぐ、守の頭には今自分のいるこの場所が思い浮かんだ。
青海島。二文字目の『海』の『う』が省略されてあおみじま、と読む──電柱に張られた金属板に役場の呼称として表記されたそれは、父方の親戚と祖父母の住む実家がある、そういった関係性で守とつながっているこの島の名前だ。
その中心にひとつ、大きな山があって。電柱や、品種も不明瞭な木々の立ち並ぶ山道を既に、そこそこの高さまで登ってきている。見下ろせばそれらの隙間からおだやかな海と、そこに停泊する漁師たちの漁船群が時折漏れ見えてくるのも島の構造からすれば道理である。
左手には柄杓とビール、コーラやシロップ漬けみかんの缶を所狭しといっぱいにつっこんだ木の桶。辛うじてアスファルト舗装された車一台分の幅の山道にわずかばかり前方を行くのが見えるのは、やや小柄な少女の後姿だ。
Tシャツに、デニムのミニスカート。履きなれているのがよくわかる、柔らかげに馴染んだ素材のスニーカー。強い夏の日差しを避けるようにして木々の影を縫って歩くその手にあるのは、蝋燭とか、線香とか。守と少女が抱えた荷物はそれぞれに正しく、墓参りのために必要な道具ばかりであった。
「マモルくん」
その、先を行く従妹──緒方あずさが、肩より少し上の髪を揺らせて、くるりと振り返った。
高校生の彼女は同じ苗字の守より、年齢的には二つ下。
同年代の従姉妹同士ということで守にとっては、距離が距離だけに昔から一緒にすごす機会は少なかったものの、なんだかんだでたまに会えばそのブランクにかかわりなく、ぴったりと息の合う妹のような存在だ。彼女の向こう側には、木々の切れ目。更にその先に、明らかにそれまでの風景とは異なる石造りの造営物がいくつにも聳え見えている。
それは、墓地だった。小さなこの島でその生命を最後まで使い果たしていった人々が眠る、小高い山の中腹に築造された石造りの霊園。この中に、緒方家の墓も入っている。他の島民たちの例に、漏れることなく。
「あっつ……」
従妹の後を追うようにして木々の作る木陰を抜け、石畳へと足を踏み出した瞬間、太陽の灼熱が身を焦がした。
かんかんに照りつける光は着衣から覗く地肌には痛いほどに強く、それに熱せられた山の空気は歩く全身がじりじりこんがりとオーブンに焼き上げられているかのように暑い。ここまでの山道も無論夏の気温として暑いことには暑かったが、木陰なしに熱せられた石の大地のそれとは比べ物にもならない。開けた墓地にはあいにくと涼むことのできるそよ風も、日光から逃れることのできる天然の屋根もありはしないのだ。
太陽の下に出て直射日光に襲われる。今まで自分たちを襲っていた次から次に現れる藪蚊たちは虫除けスプレーが撃退してくれていたが、この熱射をそんなものが防いでくれるはずもない。
喉が、干上がっていく。脇や、首や、額が。塩気を帯びたぬるい水分に濡れていくのが感じられる。帽子、うちわ、冷たい飲み物。酷暑をしのぐための定番アイテムは生憎今、手元にはない。
「や、だって夏だし。ほら、タオル」
「悪い」
タンクトップから露出した素肌の腕で直接ぬぐうべきか迷っていた守を見かねて、あずさが自分の首にかけていたタオルを差し出す。──顔を埋める。拭き取るというよりは、染み込ませるといったほうが近いだろう。おそらくはまた、すぐに面倒な水分たちは皮膚の上にその頭をひょっこりと覗かせはじめることだろうが。
「だからタオルもってきたほうがいいよ、って言ったのに」
返した守と、受け取った少女の身長は二歳という年齢差にもかかわらず、殆ど変わらない。理由は簡単だ。もともと、守自身の身長がさほど高いほうではないのである。肉体の成長に喜びを感じるのは、高校二年の春に二年連続で変化がなかったとき、すっぱりと諦めた。親戚中の男を見回しても老若問わずこのくらいなのだ、おそらく遺伝子レベルでこの自分のサイズは天命として決まっているのだろう。受け入れるしかない。
おまけに肩幅も、男女差がまったく感じられないほどに二人はほぼ変わらない。守が男性のやや筋張った直線的なものであるのに対し、あずさが女性特有の丸みを帯びた緩やかなカーブの流れを描いている程度だ。
ただ、だからこそこうやって二人、対等に話し接することができるのだろうが。あずさから一度たりとて『お兄ちゃん』、あるいはそれらに類するような敬称じみた言葉で呼ばれた記憶は守にはないし、そう自分に対し声をかけてくるあずさの様子など想像してみてもてんで実感が湧かない。
こちとら童顔故に未だデパートのレストランでは熱いお茶ではなくお冷が出てくるような男である、外見の幼さにかけてはなかなかのものだという認めたいような認めたくないような微妙な自負があるのだ。年齢差など、何の意味も二人の間には成していない。
それで居心地をよく感じる。だから少なくとも、どっちが上でも下でもなく対等なこの関係たりえている今の状況に、守は満足していた。そういう関係性が、憎からぬものだった。
「場所、覚えてる? お祖父ちゃんのお墓」
「忘れるわけないだろ、罰当たりなこと訊くなよ。一番眺めのいい、んでもって端のとこだろう」
この島にいくつ墓地があるのかは知らない。いくら小さい、ほんの2,3時間も車を走らせれば一周できてしまうくらいの島だとはいえ、こと広さという概念において数字と実感というものはひどく乖離したまったく印象の異なる類のものであるのだから。
だから島民ですらない、島を全て廻ってみたこともない守がわかるはずもない。──とはいっても、ここだけということはないだろうが、周辺地域の住宅の数から考えて。とてもこの山腹墓地だけで島の全世帯の納骨が賄えるとも思えない。守にわかるのは、まさしくその程度といったところ。
大昔、何十年と前に山の中腹に造営されたこの集合墓地は、少々変わった構造をしている。まず山の斜面に沿って棚田のように数基ずつの墓が並び、左右に広がり上から下へとずらりと続いている。
その中心を貫くようにして、上下を行き来する石段が高く長く、築造されているのだ。近年コンクリートで頑丈に舗装されたその石段は生を全うした島民たちの悠久に続く寝息に挟まれ、本土と島とを隔てる海を昼夜問わず山肌から無言に眺め続けている。
緒方家の墓は、その墓地のうちでも中層よりもやや上。山の地層・地質の関係で少々、それでいてもっとも敷地内において張り出した場所に置かれている。
一歩一歩、二人は並び石段を目的とする場所へと降りていく。そういう時期だからだろうか、視界の左右を流れていく島民たちの墓の前には蓋のついたガラスのコップに入ったカップ酒や、みかんの缶詰、落雁や鬼灯といったものが供えられているものもちらほら見受けられる。フルーツが皿に盛られたまま腐りかけて虫がたかっているのは、供えるだけ供えてそれで家族たちは鎮魂した気になって放っているのだろうか。見ていて少々、無責任であるように思えた。
ああ、そうか。『戦終わりの日』はもうすぐなんだっけ。
線香の匂いでもしないかと鼻で深く息を吸ってみて、結局むせかえるような熱い風が鼻の内側の温度を上昇させていくだけだった結果に半ばうんざりしながら、守は思い出す。
夏の、ある日のこと。日本人ならば殆どだれもが知っているその日を、この島では皆がそう言い表す。
どこかの誰かは、寂しげに。またどこかの誰かは、何気ない会話のうちにさしたる感情もそこに込めず。あるいはやはりどこかの誰かは、大人の会話に出てきたそれを、鸚鵡返しに。言葉としてではなく、字面、文字としてのみの認識で。
独特のその言い回しを、守は覚えていた。高校の一年からは受験に備えて、という母親の方針でこちらには来ていなかったから最低でも三年は聞いていないはずのその言葉を、自然に心が再生した。
「今年も祭りは、十五日なの」
石段を降りる歩みは、いつしか半歩ほどあずさのほうが先に出ていた。山道から数えればどちらかが前に出るのは、二度目。軽く歩調を速め抜き去って、一段下から振り返り訊ねる。これで三度目。たしか、慰霊祭と銘打たれた祭りがその日には開かれていたはずだ。守も一度か、二度。幼い頃にそのネーミングが名ばかりの単なる出店の群れへと目を輝かせ突撃していった記憶がある。
神輿があるでもない、ただそこに神聖さを見出すとするならば、この墓地の管理者でもある小さな神社が辛うじて、その日には送り火を境内に焚き上げて絶やさないよう明々と燃やし続けていることくらい。燃え上がる火を象徴に、海へと精霊たちを供物とともに流す。それは海に囲まれた、海の近い島ゆえの風習。
海の側から山へと、強くも弱くもない風が吹き上がっていく。温く、時折涼しく。時間は干満が入れ変わる頃合だ、少々風も出てきたようだ。
そうだよ、と。あずさが頷いた。下を見ればなかなかのスリルのある高さが見えるはずなのに一足とびに再び守を追い抜いて。すれ違いざま、眩しい太陽の光が彼女のリストバンドの白さを通じ、網膜を緑色に焼く。首を、身体を回して、守はもう一度海の側へと正面を向けた。──四度目である。
奇異なものを守が見つけたのは、そこまでの過程だった。180度の転換をゆっくりとしていく視界には当然、墓地の風景と。その脇に広がる山の斜面、そこを緩やかに下っていく山道とがあって。
目を焼いた白と同じ色が小さく、遠く草木の合間に覗いた。
白の上には、黒が流れている。長く、長く。ゆっくりとそれは動いて──茶と緑の風景の合間から現れては消え、消えては現れる。
天然に存在する雰囲気の白色では、ない。黒も、ほんとうに墨のような一色の黒。
そうしてしばらくすると、完全に消えた。──五秒。十秒。もう、現れはしない。
「マモルくん?」
人の形をしていた、黒と白。それが消えたところに、守の視線も巻き戻され固定されていた。あずさがきょとんと、守の顔とその向けられた先とを交互に見比べている。
「……幽霊、見たかも」
「はあっ?」
ようやくそう言って、またようやくに目を瞬かせて、守は肩の力を三度ようやくと、抜いた。
なに言ってんの、というようなあずさの気の抜けた声もわかる。いくら墓地のど真ん中とはいえ、言うに事欠いてこの真っ昼間、しかも明後日の方向を向いて幽霊かよ(意訳)、と。言いたくもなるだろう。あまりに自分の言葉は会話の流れの中で唐突・突然で。冗談とも捉え難いものであったのだから。
「いや。だから……幽霊、見たかもしんない」
真っ白な着物は、本当にステレオタイプな幽霊と呼ばれるイメージそのものに瓜二つであった。一瞬見えかけた横顔も遠目ではよくわからなくて、背中を風に吹かれるままにされていた長い黒髪も、そのコントラストが実に幽霊的。……幽霊的ってなんだ?
とにかく。あれで手に包丁でも持っていたら完璧にホラーだと思えるくらい、今自分の見た光景は守の中で「幽霊」というそのイメージにぴったりとあてはまっていた。白昼堂々の幽霊……そうそうお目にかかれはしない。
「こんな昼間に? 幽霊、ねえ」
「うん。白い着物着て、むこうのほうに歩いてくのが見えた」
すすす、と指先で山道の傾斜を宙になぞっていく。その言葉と動作に、呆れたようにあずさが言った。
「歩いてるなら、幽霊じゃないんじゃない?」
まさしくもっともな意見だった。反論する気力も太陽によって削られて、如何せん起きなかった。目を落とせば桶の中のコーラの缶が、赤く眩しかった。
渇いた喉が、飲み物を欲している。墓に供えるためにもってきたそれを飲むわけにもいかないし、飲んだところで冷えてもいないそれは、山道に揺られて生産された泡が喉や舌にねばっこく砂糖の味で引っかかって残るだけだろう。
飲むなら、帰ってから。別のもっとよく冷えたやつにしたほうがいい。
「ああ、きっとアレだよ、マモルくん」
「『アレ』?」
「彼女がいないせいで、飢えてるとか。幻覚を見たとか、そういう」
「やかましいわ」
そりゃあ、生まれてこのかた彼女なんてできたためしはないけれど。
「彼女のいた友人ならいたぞ」
「……それ、マモルくんが威張ることの出来る要素、なにかある? おまけになんで両方過去形」
言ってみて、自爆であったことに気付く。あずさのかわいそうな人を見るようなジト目が、あふれ出ては繰り返しねばつく首筋の汗のように、しつこくこちらに向けられまとわりついてきた。
「ま、彼女のひとりもいるっていうならわざわざ一人でうちに遊びにくるなんてこともないよね。ごめん、愚問だった」
「そんなんじゃないって」
本当に、違う。彼女がいない事実は事実として、理由はまだ他にある。
*
守が滞在する(居候、ともいう)あずさの家──父の生家から目と鼻の先にある広い和建築の建物は、自宅兼用の、漁のシーズンともなると出稼ぎの漁師たちの逗留先としていっぱいになる小さな民宿を営んでいる。
場所が場所だけに旅客の数は年間を通してもあまりいないというのが現実だが、年に一度は秋になると本土の市役所のほうから慰安旅行に団体の客がやってくることもあり、小ぢんまりとした島の中にあってそれなりに繁盛している宿でもある。
とはいってもあくまで個人経営、小さな離島でのことだから、明確に従業員と呼べるのは叔母とあずさの二人だけ。季節や時期によってはアルバイトを雇うらしいが今はそれもいない。客もシーズン外の今は守ひとりしかおらず、そもそも精霊が帰ってくるこの時期にわざわざ船を出そうなどとする者もそうはいないし、その行為自体が半ば不文律の禁則事項となっている感すらあるけれども。
父の実家のほうには、到着したその日に挨拶を済ませた。そちらに宿を構えなかったのは自分の訪問が急なものであると理解していたからこそ。民宿をやっているあずさの家のほうが、自分が宿泊したとしてかける負担も少なくて済むだろうという打算が守にはあった。
墓の掃除を終えて戻ってきて、二人は交互に風呂に入った。でなければやってられないというほどに外の熱気は、彼らの身体をひどくべたつかせていた。二人しか普段生活をしていないとはいえ、客の共同浴場としても使えるよう改修された民宿の風呂は、個人住宅のものとしてはなかなかに広い。湯船自体は5,6人は一度に入れるし、洗い場も人一人が寝そべることのできるくらいの横幅がある。
交代で軽くシャワーを浴びて、外で嫌というほどかいてきた汗を流した。あずさを当然、先に。そのくらいのデリカシーやマナーは、守だってきちんと備えている。
「それ、きっと早乙女先輩だと思います」
そして髪をがしがしとタオルでやって水気を吸わせながら風呂場から居間に戻ると、眼鏡の少女があずさと話しこんでいたわけだ。
ともに、冷えた麦茶のコップを前にして。顔を見せた守に、空きのグラスをとってあずさが同じお茶を注いでくれる。テーブルの上にはそれらのほかにも、口をやぶったポテトチップスの袋に、夏休みの宿題であろう数学の計算式が散らばるノートがそれぞれ、広げられていた。
例の、幽霊を見た見なかった云々の墓場での一件が話の種になったのは、守が二人の脇に腰を下ろしてからだ。
「何度か、部活の帰りにお邪魔したことがあるんですけど。先輩、家ではずっと和服みたいだったから」
けっこう仲いいんですよ。うちの部活内でも先輩とあたし。
中島若葉──彼女の、その自己紹介を聞いてああなるほどと思うことができたのは、高校時代からあずさとのメールのやりとりの中で彼女の仲のいい友人として、眼鏡の少女の名前を幾度となく目にしていたからだろう。
「部活?」
「ああ、あたし美術部なんです。今日もその帰りで」
田舎の高校の制服にしてはまた、随分と垢抜けた(失礼)デザインの制服のセーラーカラーを持って、若葉は広げて見せた。
「早乙女先輩の家、部員の中では一番学校に近くって。文化祭前でつくった看板とか、学校に置ききれなかったりするとそっちに置かせてもらうんですよ」
こう、えっちらおっちらみんなで一緒に運んで。
言って両腕を大げさに広げる彼女はどうもコミュニケーションに、ボディランゲージを多用するタイプのようだ。ショートヘアーに縁の薄い眼鏡という外見は真面目で物静かな優等生にも、活発な感じにもどちらにも捉えることができそうなものだが、彼女の本質はほぼ間違いなく後者だろう。
そういえば守が入ってきたときも、あずさがシャープペンの先で自分のノートと彼女のノートを交互に指し示して、問題の解法を教えていたっけ。同時に、頭を捻る作業は苦手な部類に入るらしい。
「早乙女、ねえ」
口に出してはみたけれど、会ったこともなければ見たのは後ろ姿とわずかな横顔だけ、そんな相手をそのように呼び捨てにするのは、少し失礼だったかもしれない。
ただ意識の中にあったのはその名前そのものよりも、なんだ、幽霊じゃなかったのか、という、落胆ともまた違ったなんとも言いようのない脱力感のほうだった。
微妙なその感覚を、袋から摘まんだしょうゆ味のポテトチップスとともに噛み砕く。どちらかといえばお菓子は甘いもののほうが多くこういったしょっぱいスナック菓子とは御無沙汰の守であったけれど、逆にそのせいもあってか油っぽい塩辛さが、不思議なほど旨かった。
「ちなみに、下の名前は?」
「アリス、だったと思います。字はちょっと忘れちゃいましたけど」
「ふうん」
アリス、か。着物を着た黒髪の、純和風の幽霊に見えた相手としてはひどく似合っていない名前だと守は思った。その名前ならむしろふわふわのエプロンドレスでも身につけて金髪の巻き髪を揺らし、時計を持った二足歩行のウサギを追いかけて駆け回っているようなイメージだ。
ただ、そうするとこの青海島は不思議の国──いや、鏡の国?どっちだろう。
交互に、あずさを。若葉を見る。かたや、キャミソールにショートパンツ。かたや、薄いブラウンの色を基調としたセーラー服。
テーブルの上にはグラスと勉強道具が散らかり、部屋の隅には洋服箪笥やらテレビやらが立ち居並ぶ。食堂に使われている座敷とは襖で仕切られているし、障子を模した擦りガラスの引き戸の向こうのキッチンからは、夕飯の支度中であることを告げる小気味のいい包丁のリズムが聞こえてくる。
それも、どうだろう。こんなにも生活臭に満ち溢れすぎた不思議の国が、あっていいものだろうか。鏡面世界というには、生々しすぎる。
むしろこれだけ不思議の国、鏡の国が本に描かれた内容と違っていれば、主人公のアリスが黒髪で和服といった服装なのもなんだか頷けてくるではないか。
「何笑ってんの、マモルくん」
「……あ、いや」
妙な想像から派生した思考に、口元が緩んでいたらしい。
なんでもないよ、という前に守は残り少なくなってきたポテトチップスの袋へと、再び指先をつっこんだ。手首の辺りまで入れて手探りで摘まみ出すと、手の甲に内側のアルミから脂がくっついてきた。べたべたして、あまり気持ちのいいものではない。ポテトは二、三枚を一度にとっただけではあったけれど、かなり奥のほうまでひっかきまわしてのものだから、残量との比率的には結構大きなものだろう。
口にそれらを放り込んでから、ばりばり音を立てて噛み砕きつつ、首を横に振る。思ったより口内で薄切りのポテトフライたちはかさばって、面積をとって。言葉を発するに、発せなかったのだ。
お茶をすすって、噛み砕いたポテトを飲み込んで。それから、ようやく。
「なんでもないって」
声に出したときには、明らかに言うタイミングとしては逸したものとなっていた。右脇のティッシュペーパーを箱から二、三枚抜き出し掌と甲についた脂を拭う守を見ていた二人は、やがて顔を見合わせて肩を竦め、各々片付けるべき宿題へと戻っていった。
かりかりというシャープペンの先端が身を削っていく音が、落ち始めた茜色の光差す居間にあった。彼女らが勉強をはじめた手前、テレビをつけることもかなわず守はなにげなく携帯を開く。
数件の、メール着信。それらはどれも他愛のない迷惑メールばかり。一件、地元の焼肉屋の夏休みフェアを報せるものがあったけれど、この島にいるのでは意味がない。ここからわざわざ焼肉を食べに実家まで誰が行くというのだ。
夕方から夜にかけて、何をしよう。考えてはみたものの、これといって思いつくこともなく守は机上に視線を戻す。
あずさの教えを受けながら一心不乱にノートに向かう少女の教えてくれた、あの幽霊の名前。それは名前と存在を教えられた時点で幽霊などでは無論なくなってはいる。
が、第一印象のまま守はその相手のことを未だ、幽霊と呼んでいた。
墓と家とを往復するこの時期だ、次は面と向かって顔を合わせるかもしれない。そのときこそその少女は自分にとって幽霊ではなくなり、声のひとつもなにかの縁と思ってかけるのだろうが。おぼろげなイメージしかない相手であるさしあたっての今は、呼び名としては幽霊のままでいい気がしていた。
そしてその『次』は少なくとも、今日ではない。今日はもう、墓には行かないだろう。自分も、あちらも。それこそ本物の幽霊に会いに行くようなものだ。
閉じてジーンズのポケットに放り込んだ携帯が、マナーモードで着信を告げ、二回振動した。電話でなく、メール。慌てることなく、引っ張り出して守は再度携帯を開く。
誰だろう、と思う考えは電話帳に登録された送り主の名前に、すぐに消えた。やっぱり、別にどうでもいい相手からだった。
そのまま内容も見ずに、携帯を彼はしまった。結局その日彼の携帯が着信を告げたのは、それが最後だった。
(つづく)
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