二回目。

 
前回分はこちら
続きを読むからどうぞ。
 
とりあえず、つっこみが入る前にひとつだけ。
 
 
 
マクロスFの主人公の名前には盛大に吹きました。
 
 
いや、マジで。理由は読めばわかる。
 
↓↓↓↓
 
 
 
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 『sea and dust』 2/ 女


 彼が、来たからだろうか。
 私は、夢を見た。
 小さい、小さい。そんな三人で遊んでいる夢を。
 ひとつの玩具で遊んだり、追いかけっこしたり。それはとてもとても、懐かしい光景ばかりが続いていって。
 蒼い海に佇む彼で、終わる。彼と私は、気がつけば大きくなって、昔のままの彼と顔を付き合わせる。
「また行こうね」「はやく、見つけてよ」──そういう、あの子の夢。
 きっと、この島でそれは、私にしか見ることの出来ない夢だった。

 朝起きて朝食を終えると、切り花をもっていってくれるよう叔母から頼まれた。白と黄色の菊に、熟れたオレンジ色の鬼灯。あずさは? と訊けば所用で学校に言っているとのこと。
 よろしく、と押し付けるだけ押し付けて、叔母は洗濯物を満載した籠を持って干しに出て行った。
 それはいい。厄介になっている身だし、家主からなにかやってくれと言われればその要望に従うのは当然だ。
 持つのは財布と携帯と。──座卓の上に陽射し避けにと置かれたベースボールキャップは似合いやしないのを重々承知しているから、スルーして。スニーカーを足にひっかけて、新聞紙に包まれ束になった切り花を手に、墓を目指す。
 ──が。どうやら自分は選択肢を誤ったようであると、守の心は今ひとしきりの後悔に満たされていた。
 目の前には、果てしなく思えるほどに高く聳える、墓地の中心を真っ二つに割り伸びていく石段。ほんの小さな、ちょっとした心境の変化だった。
 前回は山道を登って、この石段を降りてきた。だから今度はその逆を行ってみよう。降りてくることができたのだから、逆だって可能なはずだ。ただ、それだけのことだったのだ。
 だがそのあまりに短絡かつ何も考えていないその行動は、下ってきたときには想像もつかなかった石段の長さと、相変わらず避けようもなく憎らしいほど燦々と照りつける太陽のありがたい恵みの光によって、はじめの一歩を踏み出す前からその行動に対する意志を青年から奪っていってしまい。
 かといってここまできてわざわざ山道のほうへと向かう気力もなく、守は翳した掌の下ではるか頭上を見上げ、呆然と立ち尽くしていた。
 蝉の鳴き声が、嫌というほどに耳の内側をいっぱいにしていく。その音量も、体感できる数も。とても都会のそれとこの自然豊かな島とでは比べ物にならない。聞いているだけで、うんざりしてくる。
 暑さ、急激に乾いていく喉、蝉の鳴き声という騒音。それら三つは見事な不快の三重奏となり、この炎天下にぼうっと突っ立って考えるよりとっとと上るべきであると、ちょっと考えればわかるはずの簡単な結論の、その「ちょっとの思考」すら邪魔をする。
「……上るか、地道に」
 軽く頭痛すら感じるようになってきたところでようやく、守は最初の一歩を踏み出すべく持ち上げた。これ以上じっと太陽に焼かれていては、日射病にでもなりかねない。
 そんな調子であったから、わずかに視界の上。現れこちらへと歩き下りてくる見覚えのある色と形の制服、その天井の黒い髪に気付くまでに彼の必要とした時間は長かった。
 きているな。きている。それは認識していたのだ。ただその相手が近づいてきている理由を考えるには、「熱い」の二文字だけで脳味噌が埋め尽くされてしまっていてそこからどう動くべきかに割くことのできるスペースがなかった。
 守が立っているのは、長い長い、聳え立つ石段の、まさに上り口というに等しい部分。そこはけっして──というよりも、石段そのものが──広い場所ではなく、左右どちらかに寄っているならばともかく、守のようにど真ん中にぼんやりと立ち尽くしている者がいては、対向から下りてくる人間は通るに通れない。
「……あの」
 長い黒髪も、記憶にあった。だがはて、どこであったか。そして段差分高い位置からかけられた声に、守は自分が道を塞いでしまっていることに気付く。
 身を捩って半身に通路を空け、通るよう段上の人物に軽いしぐさで促した。
 会釈が、返ってくる。揺れるセーラーカラーは守の脇を抜け、最後の一段を下りた。抱えた通学鞄が僅かに石垣を擦った音とともに、切れ長の目をしていたそのプリーツスカートの人物はまっすぐこの場をあとにするでもなく、墓地の最下段。路傍に並んだ小さな墓たちの群れに向かい膝を折った。
 というか、彼女がそうやって両手を合わせたことではじめて、守はそれが石畳の一部ではなく墓だということを知った。それらは石段を上がっていく先に無数に聳える、大きく立派なものたちに比べあまりに小さく、あまりに不恰好で。あまりに汚れ、あまりに苔生して目立たない存在としてそこに造られていたから。じっと目を凝らしてよく見れば確かに、辛うじて読み取ることのできる掠れかかった文字が、横一列に立ち並ぶ石たちの表面を覆う深緑の苔の中に刻まれている。
 ひとつひとつ、その少女は手を合わせ頭を下げ、瞑目していく。これらすべて、彼女の親族ということだろうか。だが、だとするならばなぜもう少しましな──きちんと、綺麗に整えられた墓を買うなり、掃除してやるなりしないのだろう。
 昨日見た若葉と同じ制服が合掌する様を、そんなことを考えながら守は眺める。心頭滅却すれば、とはまさにこのことか、暑さよりも意識が集中できるものが、今の守にはできていた。
 線香を焚くでもなく、ただひたすらにひとつひとつへ祈っていった少女は最後のひとつへの合掌を終えると立ち上がり、踵を返す。
 そのまま、やはり彼女は立ち去ろうとしない。何故だかじっとこちらを見て、立ち止まっている。十秒。二十秒。やっぱり、見ている。
「あの……なにか?」
「へっ?」
 ……訊きたかったことを、機先を制される形で、云われてしまった。じっくり見ていたのはそっちだろう、と言いたくなるが、初対面の相手にそれは失礼だろうと、喉の奥で言葉を止める。
「私がお参りしている間……ずっとこちらをみているようだったので」
「ああ……。すいません。気に障ったのなら謝ります」
「あ……いや。そうではないんですけれど」
 明らかに年下だと服装でわかってはいたけれど、そこは親しくもない、今日始めて会った人間が相手である。守は敬語だった。
 素直に頭を下げると、戸惑いがちな声と言葉で、返球されてくる。
「えっと。島では……少なくともこの辺ではあまり見ない方ですよね? 帰省かなにかですか?」
 少女は、守の手にある切り花を見ながら言っていた。帰省、というよりは、自分と同じ目的でここにきたのか、と訊いているのだろう。そう判断し、守は頷く。
「そうですか。でも」
「?」
「切り花をお供えするのは、少し早いと思います。この天気だったら、送り火を迎える前に乾燥して、枯れてしまいます」
 久方ぶりに、風がそよいだ。少女の腰ほどまである長い髪を、守の手の花束を包む新聞紙を静かに揺らしていく。
 言われてみれば確かに、と守は思った。けれどもう現実として、切って持ってきてしまったのだから、生けてくるより仕方がない。枯れたらまた別の花を持ってくればいいだけのことだ。あの叔母のことだから、それも織り込み済みか、もしうっかりであったとしても言えばそうやって対応してくれることだろう。
「こっちは? 随分、年季の入ったお墓みたいですけど」
 曖昧に頷いて、攻守を入れ替える。二人が向き合う隣には、件の墓石たちが並んでいる。
「……さあ」
「さあ、って。あんなにひとつひとつ、参ってたのに?」
 まったく無関係の家の墓に対して、彼女は手を合わせていたというのか。……どこの聖職者か、慈善事業者だ、それは。
 ハンカチで額に浮かんだ汗を拭いて、少女は守の疑問に答えるように、最後に言った。
「まったく無関係ってわけでは、ないんですけどね」
 ぺこりと頭を下げて、彼女は行ってしまった。守の前に残されたのは、切り花と石段という、さしあたっての問題だけであった。
 墓石の苔生した表面を見やっても、どうにか読み取った文字の並びはまったくもって知りもしない名前で。規則性もなにも、ありはしない。
 三つ目までそうやって目を凝らして、あとはギブアップだった。読みにくい、自分のやっていることの意味がわからない、そして暑い。
 こういうのもひょっとすると、罰当たりな行為に当たるのだろうか。
 
 *
 
 私は、線を引く。まっすぐなんてきれいなものじゃない、直線なんて整然としたものでもない。
 なんのため? それはもちろん、生きていくため。死ぬためになんてやらない。これは自分が自分であるために、必要なこと。しなくては、ならないこと。
 だから、今日も私は繰り返し線を引くのだ。既に黒ずんでしまった、かつて引いたそれらの線の上から、また一本。二本。三本。気の済むまで、ひたすらに。私は当たり前のように、紅いラインを引いていく。
 襖の向こうには、人がいる。大丈夫、彼は何も知らない。もし用があったとしても、開ける前に一言声をかけるくらいの礼儀はある人間のはずだ。着替え中だ、とでも言えば取り繕う時間はつくれる。
 誰にも、作業は見られたくはない。でも、誰でもいいわけではないけれど、誰かに気付いてほしい。それは矛盾ではない。ただ単純に、自分が──我が儘なだけ。
「勇樹」
 呟きも、きっと。いや、絶対に聞こえない。部屋の中には適当に点けたコンポから、これまた深く考えず選んだCDの曲が大した興味を惹くでもなく、無為に流れ続けているのだから。小さな呟きなど、その中に紛れ消えてしまう。
 引いたラインは、上に下に、歪んでいく。ラインを引く私もきっと、歪んでいる。もはや一本の線とは到底呼べなくなったそれらの上に、私は舌を這わせるのだ。そうすれば、ふさわしい形へと線は戻っていく。私は満足して、それを見つめる。
 その一連の行為こそが、時折──日課というほどでもなく、ごくたまにやってくる、私にとっての生存証明。夏になると多くなる、自分自身の生存確認。私が、生きているということ。それを明確に実感することができる。
 また、線が線でなくなってきた。もとに、戻さなくては。舐めて、拭いて。拭いて、引いて。私は、現実へと帰還するのだ。もう、慣れている。
 人と人との間を繋ぎ、結び付けているのは赤い糸だという話はよく耳にするけれど。
 私とこの世界とを結び付けているのは紛れもなく、この。
 滲んでいく、真っ赤な細いラインだった。
 
 *
 
「……そりゃ、いいけどさあ」
 窓の外を携帯片手に見ると、今日も嫌になるくらいの快晴だった。雲ひとつない、夏の一日だ。
 この中を出ていけってか。昨日の叔母の頼みといい、なかなかに人のことをこきつかう親子である。もちろん居候の身としては断りにくいし、断ろうとは思わないけれど。
 電話の向こうの声は、学校に顔を出しているといって今日も朝から姿の見えなかったあずさだった。こちらと同様にあちら側からも、耳障りな止まることのない蝉の鳴き声が電話口に入り込んでくる。
 男手が必要だと、彼女は言った。手伝いを頼んでいた男子生徒が夏風邪でこられなくなったとかで、代わりが要ると。その言い方からして、呼ばれた理由はおそらく力仕事。この暑い中をひたすら額に汗して一仕事することを考えると、それだけでうんざりしてくる。
 島に到着した日と、それ以前のうろ覚えな記憶を頼りに静かな家々の間を歩いていくと程なくして緑色の正門が電柱の向こうに見えてくる。その柱の隣で広げた掌で、扇いでいるという程度にもならないくらいのそよ風をぱたぱた顔に送りながら、あずさは待っていた。
 暑いのはお互い様ということだ。二人連れ立ってそこそこに広い敷地の校庭を抜け、セピア色の写真に写せばさぞかし味のありそうな、年代じみた色合い・外見の校舎へと歩いていく。昇降口の周辺は打ち水が撒かれていて、気持ちだけ多少暑さが和らいでいるように感じられた。
「おー。守さん、いらっしゃい」
 冷房がはいっているわけでもないのにひんやりと涼しい、人気のない夏休みの廊下を先導されるままについていき、辿り着いたのは油絵の具の染み付いた匂いが鼻を突く、ひっそりとした校舎の隅──美術室。出迎えの声は若葉のものだ。そういえば、美術部だとか言っていたか。他にも数人、同じ制服の女子生徒が机を寄せてスペースを広げた美術室の木の床へと眼を落とし、群がっている。
「やー、助かりましたよー。これ神社まで運ぶのに女だけってのはちょっと厳しいかなーって感じだったので」
 ぴょん、と一足跳びに笑顔で近寄る眼鏡の少女。口元が猫の口のように綻び、次に床面へと戻した視線が守のそれを同じ場所に誘導する。
『海霊祭』──……水平線と、月と、灯篭とが描かれた、一枚の看板が、そこには横たわる。
 真っ黒でない。青みを微かに帯びた夜空に躍る三文字の真っ白な漢字は、戦の終わりを祈念する日の祭事を表す。
「どう。わりと色々、私も手伝ったんだよ? 半分以上、雑用とかそういう形でだけど、ね」
 たしかに、彼女は部活には入っていないはずだった。高校二年という学年柄、学校に顔を出しているというのは進路かなにかであろうと思っていたが、こういうことだったかと合点がいった。
「今日、裏手の神社に納めて。それで明後日の送り火のときに境内で飾ってもらうことになってるんです」
 絵の具はもう、すっかり乾いてますから。親指を立てる若葉は、自身の製作した大きな一枚絵に誇らしげに、そう言った。
 もうひとり、顧問の教師が手伝ってくれるということでその到着まで待つことになり、少女たちの話し声の中腰を下ろし、守も高校生たちの製作した大看板を見つめる。
 海の色も、夜空も。ほんとうに綺麗に描かれていた。素人のものにしては、と言ってしまえば褒めているのかどうかわからなくなってしまうけれど、そう言ってしまえるくらい『良い意味で』、素人のものとして見るなら美しく描かれていた。
 だが、ただ。ただ、思うのだ。夜の海は、もっと暗い。黒い。
 祭事に使うものに写実性を過度に求めるものではないとわかりつつも、守にとっての夜の海と描かれたそこにある海とは、けっして重ならない。
 まるで、墨汁のような。使い古された大鍋の焦げを沈め抽出したような、全ての色が飲み込まれてしまいそうな重く底の見えない色がその水面を埋め尽くしているのが、夜の黒を写し取ったその時間の海だから。
 わかっている。この絵は慰霊と、それを行う人々の目に留まり年に一度の時節の到来を伝えるためのものなのだ。その点でいえばこの表現はきっと、正しい。自分もこの絵は悪くないし、嫌いじゃないと思う。
 ただ、自分の定義と若干に齟齬しているだけだ。
「昼の海のほうが、よかった気もするんだけどなぁ。青いし、綺麗だし」
 あずさが制服のプリーツスカートを、裾を伸ばしてからゆっくりと、隣に体育座りに腰掛ける。
「いや、そうでもないと思う。慰霊祭のためのものだし、これはこれでいいんじゃないか」
「そうかなぁ……」
 絵の端、丁度目の前にある灯篭の穴の部分を、あずさがつっつく。絵の具はもう乾いていると言った若葉の言葉に間違いはないようで、彼女の指先が汚れることはなかった。
「ま、単純に私が夜の海、好きじゃないだけかな」
「そうだっけ?」
「うん。正直、いい思い出があんまりない」
 脇の鞄を、ごそごそやる。凍らせてタオルに包まれたペットボトルのお茶を出して、あずさは口にし一息つく。飲む? と差し出されたそれを、守も遠慮なく受け取った。嚥下すべく傾ければ、氷のじゃらりとした音と重さが動いて、冷たい粒の混じった快適な温度の液体が喉の奥に流れ込んでくる。一人二人、女子生徒が看板の対角線上からこちらの回し飲みに視線を向けて好奇に見つめていたが、気にするほどのこともないだろう。昔からこのくらいはよくやっている。……というか、従兄妹だし。間接キスでもないだろう。
「そういえば、早乙女先輩ってのはどの人なの」
 絵の全体像を見渡すように仁王立ちしていた若葉に、首をあげて訊ねる。今のところ守の見回した限りでは、あの『幽霊』と同一人物らしき長い黒髪の生徒は見受けられない。
「ああ、早乙女先輩なら神社です」
 周囲を見やることもせず、人差し指を立てて若葉の回答。
「神社?」
「この絵をもってく先の神社が先輩の家なんです。先に戻って色々と、受け入れ準備してもらってるんですよ」
 と。がらがら、と引き戸が開き、中肉中背というのがまさに相応しい、かつ中年の顧問教師が顔を見せた。先ほどから一同のリーダー格のように立ち振る舞い動いていた若葉は駆け寄っていき、細々と説明をしていく。
 中には、部外者──無論、守のことである──が校内に当たり前のようにいることも含まれていたのであろう、眼鏡の彼女とともに白髪混じりの中年教師がこちらに視線を移し、守と目があった。
 会釈。あちらも会釈。あずさと若葉のおかげでさほど感じていなかったアウェーの空気が、急に自分の周囲に満ち溢れているような感覚を、なんとなく守は味わった。あちらの視線には怪訝そうな色合いがまだ残っている。
 都会の私立校などではガードマンすら雇うようなこのご時勢だ、いくら平穏そのものの時間が流れる離島の学校とはいえ、見ず知らずの人間に対し教師が向ける空気としては、無理なからぬものなのかもしれない。
 守から看板の絵へと目を移した教師が、ほう、よくできたじゃないか、と絵に描いたようなお題目どおりの褒め言葉を呟くでもなく感想として漏らした。そんなものでも何もしていない守を含め、美術室内にいる一同に誇らしいような、こそばゆいような気分にさせてくれるのだから人間の心理というものは単純かつ不思議なものである。
「それじゃあ、運びますか」
 若葉が、無い長袖をまくるような仕草をして言う。きみ、こっちに、といったジェスチャーで教師に呼ばれ、守も二人のほうに立ち上がり歩み寄っていった。
 生徒たちの分担は既に決まっていたのだろう、守に続く者と、そちらに回ったメンバーの荷物を持つグループとに分かれる。あずさは、後者のほうだった。
 ここに一人、ここに一人。こっちはよろしくと指示を出していく若葉の言動はてきぱきとしていて合理的で、迅速だった。
 これはあとで聞いた話だが、若葉は一応、この部活の次期部長ということらしい。それも後に思い出して考えてみればなるほどと頷けるほど、如才のない仕切りぶりを彼女は見せていた。
「っと」
 また、携帯の着信だ。若葉の指示が終わるとほぼ同時のタイミングで、メールにマナーモードの着信バイブレーションが動いた。
 届いていたのは、やはりまたもや、どうでもいい相手・内容のメール。さっさと携帯を閉じると、向かい側に回った教師からの視線を感じた。こちらが携帯をしまうと、その視線ははずされる。
 校内では基本的に携帯電話使用禁止、などといった校則でもあるのだろうか? 高校時代に自分の学校にあった校則を思い出しながら、守は思った。生徒でもない部外者、しかも手伝いにきた相手ともあって、半ば生徒同然の年代の人間にとはいえ注意しようにもなかなか、面と向かってできなかったのだろう。
「せーの」
 若葉の発した掛け声に、慌てて看板の右脇にとりつく。表はともかく裏の木がむき出しになった面はかなり粗くささくれ立っていて、よく気をつけなければ針が刺さってしまいそうだった。軍手でもあればよかったが……ないものをねだったところで今更仕方が無い。重さも事前に思っていたより、それなりに両手に感じられた。
 ──やれやれ。外の炎天下を大人数での運搬作業故の低速で身を灼かれながら進むこれからを想像し、辟易した思いを守は噛み潰した。神社自体はおぼろげな記憶でもある程度、おそらくあそこだろう多分ここだろうという予想がつくが、学校との位置関係まではさすがに記憶の範囲外だ。近かったか、遠かったか。……まあ、遠いということはあるまい。
 美術室から廊下に出るには板を斜めに立てねばならないということで、それもまたいきなり一苦労。板を持ち上げ力を込める腰のあたりで、ポケットの中の携帯が今度は電話の着信コールに揺れていた。
 あとで確認して、必要ならかけなおせばいい。両腕が塞がっている以上、当然応対できるわけもなく、身体に伝導するその振動を、守は途切れるまで無視し続けた。
 見れば中年の教師はというと涼しい顔で、分厚い板に手を添えている。あれはおそらく、大して力を込めてはいまい。持ったふりをして、楽をしているだけだ。浮いている汗は渾身によるものではなく、単純に気温ゆえのものだろう。アルバイト先の力仕事で自分がよく使う手であるだけに、一目見て守にはそれがわかった。
 男は二人だけ、しかも真面目に板の重量を支えているのはそのうちで自分のみという状況においては、向かうべき目的地である神社が若葉の言葉通りさほど離れていない、すぐ近くだったというのは幸いだった。
 正味の移動時間としては十分もおそらくはかかっていまい。何度か曲がって、広くもない道のほうに入って。
 最後に数歩分の石段を、歩幅を皆と同じに調整しながら上がり、赤茶けた、くすんだ色の鳥居をくぐる。
 眼前に広がったのは、けっして広い敷地ではない、こじんまりとした神社だった。境内にはいくつかの灯篭や石の増築物が並んでいる程度で、管理者の住居とおそらくは繋がっているのであろう本殿が小さくぽつりと、前に置かれた木造の賽銭箱とともに奥に座している。
 敷き詰められた目の細かい、さくさくとした小気味の良い踏み心地のする砂利の上へとゆっくりと板を下ろし。先輩を呼んでくると言って本殿の裏手のほうへ走っていった若葉を一同で見送った。
 さて、鬼が出るか蛇が出るか──というのは大げさにしろ、あの日見た『幽霊』の後ろ姿を心中に呼び起こしながら、守は彼女がその『早乙女先輩』『早乙女アリス』と呼ばれる人物を連れて戻ってくるのを待つ。立てて置いた板を支えるのを手伝おうとしているのか、複数人分の荷物を抱えたあずさが隣に並んだ。
「あずさは、よくしらないんだっけ。その『早乙女先輩』のこと」
「うん。そりゃまあ、何度か顔を合わせて挨拶したことくらいはあるけど──……って、わりと興味津々なんだ、守くん」
 それじゃあスカートの裾や膝が汚れやしないかと少々心配にはなったが、あずさは両足を板の裏側に当てて支えている。例の中年教師以外は複数人が地面に置いた板を保持しているから、無用ではあったもののそのことを言ってやめさせるというのも善意を無碍にしているようにも思えてなんとなく、申し訳ない気がした。
「そうだな……わりと、な」
 発売を待っていた新製品・雑誌の新刊を手に取りレジへと持っていくような、そんな感覚が徐々に守の中には増加しつつあった。変な期待ではあるけれども、彼の興味の方向は確かに、これからやってくるであろう人物との顔合わせへと向いている。
「おまたせー」
 小心者の中年教師は、裏手から小走りに再び姿を見せた不意の若葉の声に、びくりと肩を怒らせて額に脂ぎっていた汗を拭き取っていたハンカチを取り落とす。
 少々の距離を彼女が詰めてくるまでに、どうにか頼りにならないその最年長者は自分の見せていた醜態から立ち直り、砂利の上に落着したねずみ色の汗を吸った布切れを拾い上げていた。そういう人物だと一同はとうの昔に理解しわかっているのか、はたまたこんな相手でも教諭は教諭として教え子に対する威光フィルターは有効なのか、けっして俊敏ではなかった中年男のその一連の動作について守の周囲のあずさたちがこれといったリアクションを見せることはなかった。
「先輩、今きますから」
 そしてその人物は建物の影になっている曲がり角を折れ、一同のそれを誘導した若葉の視線の先から、静かな足音とともにやってくる。印象は、白。そう、一色に染め上げられた着物の白。
 同時に彼女のその姿は、守には二つの相反する感想を覚えさせる。
 ひとつには、期待に背かずあの日彼の見た『幽霊』の姿そのままの、一見の印象と同じ白い着物。長い髪は黒く、そのコントラストは紛れもなく守が幽霊と見間違えた後ろ姿のそれと等しい。
「……お待たせしました」
 一方、もうひとつの感想と呼べるものはたった三文字、想像・予想などの範疇を超えた『想定外』という感情。別の言葉へと言い換えるならば、驚きともいうべきものだった。
 彼は、『幽霊』と顔をあわせることは想定していた。つまるところ、自分が生なき者と見間違えた少女と相対することしか、心理のうちに準備はしていなかったのだ。  
 しかし。
「あんた」
「──……?」
 そこにいた和服の少女はただ『幽霊』であった人間ではない。髪の色が、長さがそれを伝えていようとも。白装束がそのように認識させようとも、こちらへ向けられたその顔は、あの後ろ姿とは違う存在を、守の脳裏にフラッシュバックさせる。彼女が何者であるかのイメージを、先日向けられていた背中とは別の形で気付かせるのだ。
「あのときの」
「あっ」
 顔を指差すような無礼は、しない。あちらも声を発し一歩歩み寄った守の顔を覚えていたのであろう、言葉をかけられ長髪の白服少女は口元を抑えて小さく声をあげた。やはり驚いたような表情で、守と同じように戸惑いリアクションに困っている。
 なにしろ、互いもう会うことなど想像の片隅にもなかったであろう相手が、目の前にいるのだから。その反応も無理もないことだろう。あちらも、こちらも。
「あなた、石段のところにいた」
 他の一同が、きょとんとしている。守の見た『幽霊』は確かに、あずさや若葉たちの先輩であったことには間違いない。
「……若葉。この人は?」
 ただしそこには守の認識限定で、石段とか、墓参りとか、先日出会ったとか。様々な枕詞がつくことになる。……敢えて、彼女のことを実際の名前、「早乙女アリス」以外の呼称で言い表すとするならば。
 
 *
 
 アリスという名前には漢字を当てるわけでもなく、ただ片仮名三文字でどこぞの不思議の国の主人公と同じつづりである、ということだった。
 家主の少女の指示に従い、運んできた大看板を一同協力して蔵へと収め。冷たい氷の入ったグラスの緑茶をそれぞれに居間でご馳走になって、雑談の時間──もとい、改めて相互の説明の時間が設けられる。
「なるほど。緒方さんの従兄の方だったのね」
 その場にいる男は守、ただ一人。教諭はといえばお茶のおかわりを要求してそれを飲み干すなり、用はないとばかりにとっとと帰っていってしまった。コンクールの作品がまだという女子生徒たちも何人か、先に学校に戻っている。あずさと、若葉と。あとは並んだ外見がそっくりな顔をした双子と思しき少女が二人、残った形となる。
 件の早乙女先輩はというと若葉に対しては「若葉」。美術部員ではないあずさに対しては苗字で「緒方さん」と呼び分けているあたり、あまり親しい相手というわけでないというのは本当のようだった。
「道理で、見ない顔だと思った」
 女生徒たちが集まる居間は冷房が効いているわけではなかったけれど、開け放たれた縁側は打ち水で風も暑すぎぬ程度には冷めており、扇風機が回っていて過ごしにくいということはない。
 古きよき時代の夏の日本家屋の風情、とでもいうのがぴったりとあてはまるような光景がそこにはあった。それを構成しているのが現代的なデザインのセーラー服の少女たちによるものだと考えると、少々ちぐはぐではあるけれども。
「それにしても……幽霊はないんじゃないかしら」
「ちょっと、ねえ」
 事の次第は、一同の間で簡単に守とアリスの口から説明された。その結果、守に四人分の少女たちのジト目が集中する。
「う……すいませんでした」
 さすがに、多勢に無勢。反論や言い訳をするほどの勇気もなく、頭を掻き掻き、守は白い着物の少女に頭を垂れた。実際、生きている若者、しかも女性をつかまえて幽霊というのも失礼極まりない話だと、自分でも思う。
「ああ、そんなに気にしなくて結構ですよ。確かにお墓でこんな格好してる人が突然目の前にいたとしたら、もしかすると私だって間違えたかもしれませんし」
 おおー、と他の女性陣から声があがる。やさしいなぁ、とか。寛容な人だとか、おそらくはそんな意味合いの感嘆であろう。言われ、守は下げていた頭をあげる。
「むしろ、今日は手伝っていただいてありがとうございました」
「いや、そんな。たいしたことは」
 入れ替わりに今度は、アリスのほうが守へと頭をさげてくる。さほどの労力でもない仕事であったというのに、律儀なものだ。
 顔を上げたその姿を、じっくりともう一度見つめなおす。白い着物は当初の印象通り、汚れひとつなくまっさらな純白で彼女の四肢を包み込んでいる。──改めて気付いたのは、そこから伸びる手足やその素肌が、負けないくらいにやはり白いということ。けっして不健康な、病的な青白さというわけではないけれども、どこか日本人──黄色人種らしからぬというか、異質な色味の薄さを感じさせる。
 薄まった白い肌は、長い髪。整った顔立ちの中の細い目とあいまって、非常に静謐かつ物静かなイメージを、彼女を見るものに与えていた。
「どうか、しましたか? 緒方さん」
「と、ああ……えっと。別に、ともいきませんか」
「?」
 目鼻立ちの造りも、十分に美人と呼べる範疇にある顔だ。……だから見惚れてましたなんて、言ったところで何を言っているんだこいつは、とどうせ呆れられるに決まっているし言い訳にしかならない。
 幽霊と見間違えるわ、突然押しかけるわ、詮索するようにじろじろ見てしまうわでどうにも自分は彼女に対してさきほどから、失礼を積み重ねているようだ。そのことが一度気になってくると、また失礼の上塗りになってしまうことしか言えないような気がして、どうにも次の吐き出すべき言葉に詰まってしまう。
 視線をはずしてなにか別の話題になりそうなものを探す。ふとあずさと目が合い、助けを求めるように感情を込めて送ってみるが、従妹は眉を顰めて「何?」といわんばかりの表情で首を傾げるだけだった。意思疎通、失敗。
「さて、それじゃあそろそろ学校戻らないとかな、あたしたちも」
「はいはーい」
「了解ー」
 代わりに結果として守にとっての助け舟となったのは、そう言ってやおらに腰をあげた若葉のほうであった。畳の上から通学鞄の肩紐を持ち上げて肩に背負い、アイコンタクトでもう二人の部員へとこの場を暇乞いするよう促す。
 さすがは、次期部長というべきだろう。目鼻立ちのそっくりな少女二人は、それを読み取り素直に彼女に従う。
「あずさ達はどうする?」
 投げかけられた言葉は、助け舟の次の渡りに船。話す機会がまたあるかどうかはわからないけれど、ここは日を改めるべきだろう。大体、ツーカーな関係の彼女らが退出するというのに顔をあわせて二回の自分やアリスとは別段親しくもないあずさだけが残っている道理もない。
「俺たちも帰ろうか、あずさ」
「はーい」
 若葉に同調し、あずさへと呼びかける。まだちょっと納得のできていない様子の従妹はそれでも、さして疑問を挟むことなく鞄に手を伸ばした。
「あ、緒方さん」
「「はい?」」
 同じ苗字なのだから、明確にどちらともはっきりしない状態で呼ばれれば二人が返事をする。見事に同じタイミング、似通った立ち上がりかけのポーズで、呼びかけたアリスのほうへとほぼ左右対称に振り向いて。
「……ふふっ」
 ──笑われた。悪意のない、柔らかな微笑の無声音で軽く。
「なんでもないです。気をつけて帰ってくださいね、お二人とも」
 寄り道なんかして帰ると、今度は本物の幽霊が出るかもしれませんよ。続いた言葉は軽快で、冗談めかしたいたずらっぽい語り口だった。元の顔が整っているから、そういった表情の緩急も一層に映えて見えるのだろう。
 穏やかな、物静かな印象以外のこういう顔もできたのかと、守の目にはそれが非常に魅力的に映った。帰り道、知っている彼女のことについてある程度話してくれたあずさも、それには少し驚いていた。
 早乙女アリス、三年二組。校内では無口ゆえの印象の近寄り難さゆえに人好きのする顔、整った見た目でありながら完全に高嶺の花扱いを受けている。
 あんな風に笑うんだ、と意外そうに、あずさはオレンジ色に染まり始めた道で独り言のように呟いていた。なんとなく、学校に戻っていってしまった若葉たち、そこそこ以上に彼女と親しい人間たちの持つ、早乙女アリスという女性に対してのそれぞれのイメージと訊き比べてみたい気がした。
 彼女との邂逅に守の抱いた感想は、けっして悪いものではない。
 
 
(つづく)
 
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