そんなこんなでのっけてみる。

 
 ただ基本がword100ページ分+ここに載せる前に改稿で上下なので文字数いつもに比べてかなり多いです。今回は導入の18ページ分で約17000字。
 それでも読みたいという方は覚悟の上でどうぞ(汗
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『Pulcherrima 〜妹と、異星人と〜』その1
 
1/
 
 
 位牌が、胸の内ポケットの中で揺れている。心臓の上に。Tシャツに。それを包んだ薄紫の、きめ細かい布地越しに、テンポを刻み肌を叩いている。
 たぶん、普通の同い年はそんなもの持ち歩かない。つまり、ちょっと自分が普通でないと言う点について、自らの珍しい名前とともに枕は自覚している。
 漢字一文字。読み仮名はそのまま、「まくら」。もともと女の子につけるつもりだったと両親から聞かされていたから、心底自分が男に生まれてきてよかったと思っている。女の子で枕は正直……拙かろう、色々と。
 けれど自覚しているからこそ、それはいつものこと。そのいつもの揺れを感じ、リズムを聞き。階段を上りきった十七歳の和戸枕が日々の糧を得るための生業としている、時給七五〇円の本屋のアルバイトから帰ってくると、部屋の鍵が開いていた。
 確かに戸締りは確認して家を出たはずだったから、それはもう焦った。基本的には怠惰かつ無用心な一人暮らしではあるけれど、最低限の防犯の部分は気をつけているつもりであったし、そんな生活が許される程度には治安の良い場所に居を構えていると認識していたのに。
 傘立てなんて立派なもの、生憎安アパートの玄関には備え付けていない。不法な侵入者に対してないよりはましと靴の棚にひっかけていたビニール傘を手にとって、恐る恐る家の中に入っていく。泥棒。強盗。逃亡中の殺人犯。なんで心安らぐはずの我が家にこんな怯えながら帰ってこなきゃならんのだという理不尽な思いが、未知の相手に対して際限なく広がっていく悪い方向への想像と同居する。
 部屋は、キッチンと寝室、あとはユニットバスの浴室だけの縦長いほぼワンルームに近い構造。そのうちの寝室ブロック……扉一枚隔てた向こう側には、人の気配があった。閉めたにもかかわらず開いていた鍵、その事実に違うことなく──やはり、誰かいる。
「やあっと帰ってきたか」
 それは、女の声だった。しかも高くやや舌足らずの、女性というよりは少女の喉から発せられたものに枕の耳には聞こえる。口調や声音そのものは高圧的な色を含み。けれどそれが威圧感として十分に機能しない程度には、幼い音色。
 扉は、こちら側に引かないと開かない。ノブを握って、回して。開けた先には声からの予測に寸分違わぬ、小柄な髪の長い、まさに少女らしい外見の少女が座っている。生憎とこれまた予想のうちにあったのと同じく、その手にやたらきらりと光る刃の包丁を握り締めて。
 似合わない。この組み合わせは激しく似合わない。なまじ少女の顔立ちが整っているだけに、物騒かつありふれた刺身包丁などという代物とは文字通り恐ろしく不釣合いだ。
「……どちらさまで?」
 指とか切ったら危ないよ? 放しなさい? ──なんて気の利いた冗句、思っていても口に出せるものではない。たしかに、相手は小さい。幼い、お子様だ。でもやっぱり刃物をその手に持っている。要するにデンジャーな存在と規定するに足る装備を、相手は用意しているのだ。  
昨今、犯罪低年齢化が叫ばれる世の中である。いかに幼い容姿をしているとはいえ下手な発言をしてまっては命に関わることだってあり得る。
「なに。名乗ることも必要ないし、わたしも同様にきみの名前を知らない。たぶん顔を合わせるのもこれっきりだ」
 だったら、なんでうちにいるんだよ。
つっこみたい。でもつっこめない。あの包丁が、包丁が非常に高い威嚇効果を以ってこちらの発言を制してくるからには。
 聞く側である枕からしてみればわけのわからないロジックを口走りながら、少女は刃物を手にゆっくりと腰を上げる。
「まあ、御託を並べるのも余計だろう。とりあえず、聞きたいことがある」
「は?」
「地球のこと、好きか」
「……いきなり、何を」
「好きか、と聞いているんだこの野郎」
 一体、なんなのだろう、この子は。
 この野郎とはなんだこの野郎。……いや、野郎じゃないか。女の子だ、うん。
 人の家に不法侵入して、刃物まで用意して。何を言うかと思ったら、いきなり襲い掛かってきて金品を奪おうとするでもなく、枕に見に覚えのない恨みをぶつけてくるでもなく。
 地球が好きかだなんて、どこの環境団体のまわしものだと言いたくなるようなことを吐いてくるのだから。鯨は絶滅しない程度なら捕獲して食べてもいいと思います。
 心底、わけがわからない。
「どうなんだ、好きか嫌いか」
「そりゃ、どっちかっていったら好き……だけど」
 まあ。自分の生まれて日々の生活を営んでいる星──というか、唯一の人類の生活圏の星であるわけだし。
 代えの利かない大切なもの、環境保護は大事だと一般論として言える程度には、好きだとは枕も思うけれども。
 だから、なにさ。
「そうか。──よし、なら死んでくれるか」
 なにさって……え?
「……はい?」
「いや、だから。世界の平和とわたしの平穏を守るためなんだ。悪いがつべこべ言わずに大人しく、とっとと死んでくれ」
 なんですと? と思わず言いそうになった。
 地球、好き。ならば死ね。なんだ、その乱暴かつ強引過ぎるどう見てもイコールで結ばれそうにない等号成立は。
 話がひとりでに、どんどん進んでいく感覚が否めなかった。とん、とんと。刺身包丁の背で肩を叩き気だるそうに、かつさらりと聞き捨てならないことを吐き捨てるこの少女は一体なんなのだ。
 死んでくれ、と微笑混じりに面と向かって言われても。要はてめー今から殺すぞ? という宣言に他ならないわけであって。しかもその理由が世界平和などという大層すぎる上に明確が極まって逆に曖昧にしか受け取れないものであるというのはどうなのだろう。
 なにか、自分はこの顔も知らない、会った覚えもない少女に対して悪いことでもしたのだろうか。それこそ、殺されるくらいに。いやいや、繰り返すようだがやはり、そもそも本当にこの少女は一体何者なのだ。勝手に部屋に侵入しているわ、言うに事欠いていきなり『死んでくれ』など穏やかでないことこの上ない台詞をぶつけてくるわ。
 考えがぐるぐると脳内を回っていく。状況に思考が追いつかない、考えるべきことが多すぎ、反比例して提示された情報も少なすぎる。
 悪いのは多分こっちじゃない。そういう確証もこんな状況では、なんだか頼りないものに思えてきてしまう。
 密かな座右の銘は、君子危うきに近寄らず。そうやって生きてきた(つもり)、そんな枕がその言葉のとおりに行動しようにも、アルバイトから帰ってきたそこに危険があったでは回避のしようもないではないか。
「とにかく、そういうことだから。──ま、悪く思うな。こっちも恨みがあってこんなこと、やってるわけじゃない」
「いや、え? あ? ちょっと。ストップ」
 そしてなにより、枕へと時間を与えてくれる気が、少女にはないようだった。
「問答無用。──許せ」
「許せって、え? ……うそだろ、おいっ!」
 少女が、腰だめ(というのだろう、多分)のような形に鋭利な切っ先の包丁を構え握り締める。目は真剣そのもの、あちらはあちらなりに緊張しているのか僅かにその細い肩は震えている。
 本気だ。そう思っても土壇場で人の身体とは思うように動いてはくれないもの。少女が踏み込みの右足を踏み切ってなお、自分自身の危機にもかかわらず枕の四肢は刃の光それそのものに射竦められたように硬直し、微動だにしてくれなかった。
 ほんの少し横に動けば、かわせるはずの軌道。少女の細腕が相手ならばそれは造作もない行動であったはずなのだ。なのに、足はそこの床に吸いつけられる。
 ああ、このまま死ぬんだろうか。自分と少女との距離はほんの数メートルと離れてはいない。土壇場も土壇場、こんなところで凡庸な一般人っぷりを発揮するごくごく普通の自分自身に、ぼんやりと枕は、覚悟ともつかぬそんなことを思った。
 ──だから、結果的に彼が無事なのは偏に、命を狙う少女が勝手に自滅した、ただそれだけのことである。
「はぶっ!」
 春先も過ぎ、初夏も近いというこの時期にもかかわらず一人暮らしゆえのものぐさで、枕は座卓に敷いた炬燵布団を押し入れへとしまいこんでいなかった。
 その上に、少女の踏み込みの第一歩目が着地する。だが彼女の計算ではおそらくはそこに跳躍の先を留めておくつもりも、二歩目の基点を設けるつもりもなかったのだろう、予想外の心許ない足裏の感触からか、慌てたように少女は足元を見る。
 足りなかった、自分の歩幅に。跳躍の距離の、短さに。不安定この上ない、滑る足場に。
そこで、バランスが崩れる。
 フローリングの床は炬燵用のカーペットを出しているとはいえ、表面の滑らかな布団が間に入ったこともあり非常に滑りやすい。一度崩れた体勢は、止まらず。足の裏を重心はいったりきたり、布団の生地を床の上で実に円滑に平行移動させて。
 ついに重心の方向が定まって、少女は前のめりにつんのめる。慌ててもう一歩を強引に踏み出しても、今度はそこにはデスクから伸びているパソコン用のケーブルが待っている。
 履いている黒いオーバーニーソックスに包まれた弁慶がそこに絡まればもう、絵に描いたような転倒の図の出来上がり。手から取り落とした刺身包丁は床の上を軽い金属音とともに転がるように流れ滑っていき、受身もままならず少女は顔面から固い冷たい木のフローリングへとダイブする。ごちんと、したたかに鼻の頭か額かを打ちつけた痛々しげな音が広くはない室内へと響き渡る。
「……大丈夫?」
「〜〜〜〜」
 とりあえず足元に転がってきた包丁を扉の向こうに蹴り飛ばす。これでよし。おそるおそる少女へと近づくと、痛さで声が声になっていなかった。……かなり、おもいっきり顔面を叩きつけたらしい。床にめり込むように突っ伏して蹲ったまま、じたばたと両足がもがいている。
さすがに自分の家である以上、放っておくわけにもいかず枕は戸惑いつつも、彼女に手を差し出す。その瞬間、少女は跳ね起きる。
「隙、ありぃっ!」
「!」
 今度は素手で飛び掛ってくる。胸倉にしがみつき、襟元を掴んで──……。
「ぎゃん!」
 掴んで、投げられた。投げた、ではなく少女のほうが投げられた。きれいに形の整った払い腰。足元がお留守だったこともあり大した抵抗感もなかったために、あっさりと。多分審判が見ていたら、微塵の疑いもなく一本の宣告を下していたであろうほど完璧な入り方で。  
一応中学までは柔道をやっていた条件反射からか、枕はつい手加減もなにもなしに、不意に襲い掛かってきた少女を背中から床に投げ飛ばしてしまっていた。
「わ、悪い。大丈夫?」
 高校に入ってからは体格的にレギュラーは厳しいだろうということで、中学卒業と同時に勘を錆びつかせるにまかせていたけれど、意外に身体というのは染み付いた動きを覚えているものだ。
──いやいや、そんなことより今は背中を押さえて床にくの字に丸くなって悶える少女のほうが重要だ。とりあえず、今投げてみてわかった。死んでくれもなにも、この子の手では凶器なしには、自分は死んでやろうとこちらから積極的に思いでもしなければ死ぬことは出来ない。
ひとまず、こちらが過度に気を抜くことがないなら彼女の腕力は(彼女がそうであることを望む望まないにかかわらず)人畜無害のまさしくお子様レベルだということがよくわかった。
「痛い……すっごく、痛い……」
「あー。ごめん。つい」
 細い折れそうな腰の辺りをさすってやる──つもりで手を伸ばすと、彼女はがばりと起き上がり壁の本棚に猛然と後ずさっていく。
「セクハラする気か、この馬鹿モノ! 痴漢!」
「は? いやうん、全然そんなつもりは。ちびっ子に手を出す趣味もないし」
「うるさい! だまれこの馬鹿! 馬鹿! ちびっ子ってなんだよ!」
 ぎゃあぎゃあと本棚を背に喚きたてる少女の吐く声からは、先ほどまでの悠然とした余裕たっぷりの色は完全に消え失せていた。今はもうすっかり、小さな外見相応。少女らしからぬえらそうな口調のみが残り、耳をつんざいていく。
 やれやれと、息をついて枕は座り込んだ彼女へと問いただす。
「とりあえずきみ、どこの子? 一体なんでうちに勝手に入ってこんなことしたのかな? おうちはどこ?」
 ひとまずは、事情を訊こうじゃないか。見るからに年下である彼女に対しつとめて柔らかい口調で語りかける。警察に通報するのなんていつだってできる。なにしろ未成年である自分自身より歳若い人間を突き出すのなんて、気分のいいものではない。説得するだけでお引取り願えるのならば、それが一番ではないか。相手が相手、非力な少女であったおかげか、随分と枕の思考回路にはゆとりが生まれていた。
 だが、彼女は枕の向けたその口調に反発するように一層のボリュームをあげてがなり立てる。お、突き出された足にスカートが揺れて中身が見えた。……水色。なかなか品のいいものをお穿きのようで。シルクだろうか。
「大体なんだ、その言い草は! ちっちゃいからってお子様扱いするな、わたしはこれでも十七歳、高校二年生だぞっ! お前こそ何歳だっ!」
「……高二?」
 その体格。その、体型で? 彼女の言葉にしげしげと小さな体躯を眺め回す。
身長はせいぜい、座り込んだ今の体勢からの推測であることを考慮しても、どう見たところで百五十センチ……いや、四十センチなさそうだ。その腰の辺りまである長い黒髪は崩れた座り方に床を擦りそうな位置まで伸びていて。夕方の斜陽に、ツヤが照らし出されている。凹凸の殆どない身体は、細く華奢。こちらを睨みつけている涙目の瞳も切れ長ではあるけれど、やっぱりそれも面立ちとともに幼さを残している。
 以上の光景を加味し、さきほどの下着のデザインなども含めじっくりと思考した結果、出た結論。うん、これはやっぱり、どう考えても──……。
「嘘だぁ。正直にお兄さんに本当のことを言いなさい。あとその歳でその下着はまだはやいと思うぞ? おとなしくアニメの絵柄のやつでも穿いてなさい。ほら最近だと白と黒のフリフリ女の子二人組とか。あ、今は五人組だっけか? 三人?」
「嘘じゃないっ! って何を言っている! 見たのか、お前!」
 同い年には、見えなかった。せいぜいが小学生、よくて中学生。そうとしか見えない少女の金切り声が、慌ててスカートを押さえたばさりという音とともに鼓膜によく響く。
 が。
 そのときである。
『──リッカ。もういいわ、私に彼と話させてもらえないかしら』
 そこに、どこからかふと別の声が割り込んだ。何の前触れもなく突然に、かつごく当たり前のように滑らかに。
 癇癪を起こして喚き立てていた少女の耳にも、その声は届いたらしい。やおら黙り込み、俯き視線の先にある己の左手を見つめる。
 薬指の根元に、銀色近い色彩の淡いメタリックブルーがリングとなって、きらりと輝いていた。これまた、少女の幼い外見とは不釣合いなひどく大人びた代物だ。特に中心の翡翠色をした宝石などは、子供の玩具のガラス細工、プラスチックのイミテーションなどとは到底思えない、深い光を放っている。──そう、反射ではなく、自らそのリングは輝きを持っているのだ。まるでネオンの電飾が小さなそれ自体に、仕込まれてでもいるかのように。
「……わかった。もうこんなやつ、知らん」
 少女は、指輪に向かいそう言った。
……おかしなことだとはわかっている。だが少なくとも、確かに枕には彼女が、指輪と会話をしている風に見えたのだ。
 指先をフローリングから持ち上げて、胸の前に突き出して。静かに少女は大きくも切れ長な両の瞳を閉じる。そして指を彩るリングが彼女の行動に応じるように、輝きを増していく。
「任せる。『レイヤ』」
 膨れ上がった光は、薄いヴェールのように広がって。散らかった部屋を満たしていく。
 なにをしているのだろう、と枕は彼女の意図がつかめず困惑した。いや、困惑というのならば今日さきほど自室に帰ってきて以来、ずっとではあるのだが。
 困惑しながら、流石に眩しくなってきた光量に目を細め少女のほうに視線を注ぎ続ける。
 光は、どんどん強くなっていく。ひょっとするとお隣あたりがなんだなんだとベランダから顔を出しているかもしれない。突然の日常への闖入者、その闖入者の運んできた未だよくわからない状況の非日常を目の前にしながらなお、枕は呑気ともいえる生臭いことに思考を割く。
『ほんと、図太いっていうか俗っぽいっていうか。随分と能天気なのね。リッカ以外の地球人って』
 まただ。また、声が聞こえた。しかも、今度はこちらの思考を呼んだような言い草である。同時に、今度はそれがどこから聞こえたかが明確にわかる。
光の向こう、白さに埋もれ見えなくなっている先。すなわち、少女の座っている場所。
 そちらから、その声は枕の鼓膜へと飛び込んできていた。
「おい、なにをしてるんだ」
 忘れてはいけない、相手は曲りなりにも枕に対し「死んでくれ」と包丁を持ち出してきた人間だ。隠れるような場所はこの狭い部屋にはないはずだが、他にまだ連れがいたというのだろうか。あるいは、呼んだのか。誰かに語りかけている様子であったところを見るに、そうなのかもしれない。非力な少女だけと高をくくっていたが、彼女一人ではないというのならば話は別だ。警戒心が、再び頭をもたげ身体を衝き動かす。
 じりじりと部屋の外へと通じる扉に寄り、ノブを掴んで後ろ手に閉め切る。手は、離さない。鍵もかけない。これですぐには外から誰かが入ってくるということはできないし、なにかあれば一目散に室外に逃げ出すことも出来る。
『あー、あー。大丈夫。もう問答無用でお命頂戴ー、なんてやんないから。だからそんな身構えないで』
 三度の、声。あちらからはこちらの動きが見えているのだろうか。身構えるなといわれたって、そんなもの無理な話だ。こちらからは見えない、あちらからは見える。そんな不利な状況が読み取れてしまったからには。
 結局、これが役に立ってしまうのか……そもそも、役に立つのだろうか? 思いながら足元に転がしていたビニール傘を再び手にする。相変わらずの、頼りになるのかならないのかわからない得物である。こんなことなら柔道ではなく剣道でもやっておけばよかった。それならばこの貧弱なアルミの骨をした細い傘も、多少なりと信頼を置くことができていただろうに。
 思う枕は、汗をかいていなかった。むしろ汗もかけないほど緊張していたといっていい。幼い少女と相手を侮っていたところから急激に、わけのわからない状態へと再度叩き落されたのだ。かつ、それには自分の命がかかっているかもしれないのである。耳は一分の音も聞き逃すまい、すぐに反応しようととにかく周囲の雑音から何からをかき集め、耳鳴りに近い音まで感知するようになり。目は徐々に和らぎだしたかのように見える少女のリングからの強い白い光の向こうを、そこに何があるのかを見極めるべく細めながらも注ぎ続ける。
「だから、とって食ったりなんかしないってば。ちっちゃい生き物ね、ほんと。これが地球人、か」
 ──小さいのはどっちだ、と。自分自身が冷静でいられる状況、かつそれが当たり前の光景であったならば、枕はきちんとつっこみを入れられていただろうか。
 その非現実的、非日常的な映像に対して。
 影が、少女の掌の上にあった。小さな、小さな。それはまるで、人形のようだった。
 例えるならば、低年齢層の女の子向けの玩具。あるいは、童話のピーターパンに出てくるティンカーベルといったところ。
 一見、よくできた人形にしか見えないサイズのそれが少女の掌の上に、仁王立ちしているのだ。
「なに? なんか言いたそうだけど」
 ただし後者を例として採用するならば、その背中に四枚の翼はないことを脚注しておかねばならない。身に纏う着衣も、妖精とかそういったものを髣髴とさせるような類のデザインではなく。むしろ真っ白な、ぴったりとしたミニスカートのワンピースにスパッツ、ブーツ。似通ったものがでてくるとすればおとぎ話というよりもSFの物語の世界だろう。
 白を混ぜたような柔らかい明度の若草色の髪は、それを……いや、彼女を? 手の上に載せている少女のものほどではないにしろ、セミロング程度の長さでウェーブ気味に、大雑把に切り揃えられている。襟足や前髪が堅苦しく直線になっていない、長めのおかっぱとでもいうべきだろうか。生憎女性の髪形やファッションなどに疎い枕の語彙の中には、その髪型をうまく言い表す単語というものが見つからない。更に耳の上辺りには、流星を模したと思しきデザインのヘアピン。
「だからなによ。じろじろ見ない。レディに対して失礼でしょう?」
「……人形が、しゃべった」
 ついでに、動いた。作り物や玩具などとは到底思えないほど、軽やかかつ滑らかに。
弁舌も物腰も、非常にスムーズこの上なく。少女の掌に載ったそんな小さな存在に対して枕がとることができた反応はあまりに漫画的、かつ通り一遍。現実にこんな台詞を吐く日がこようとは枕ならずとも、一体誰が想像しえただろう。
「人形じゃないっつーに。『レイヤ』。いい? れ、い、や。レイヤよ」
 しゃべるだけなら。動くだけならばなんらそれは不思議ではない。いまどき、そのくらいの玩具はありふれているのだから。しかしその人形──失礼、本人(?)曰くのところの『レイヤ』と名乗った小柄というには小柄すぎる相手は、駆動音も機械的な間接の動きのタイムラグもなくまるで生物的に、前かがみの姿勢で、細く爪の先ほどしかない人差し指を枕に向けて立てて見せるのだ。
 ほんとうに、普通の、その辺を歩いている同年代、あるいは多少年上の少女が相似縮小されたかのように。表情も仕草も、なんら人間として認識することについての違和感をこちらへと与えてくれない。
「ちょーっとお兄さん、話聞いてもらえるかな? わりと大事な話、あるんだよねえ」
 掌の上にいる小少女(変な言い方ではあるが、まさにこう形容するより他にない)は身を乗り出して、ぽかんと彼女を覗き込んでいた枕の鼻の頭をつんとつついた。セルロイドとかソフトビニールとか、そういう硬く冷たい材質的なものでない、生の温かみがそこには肉の柔らかさとともにあった。
 未だよく、状況が枕は飲み込めていない。小さな、ほんの小さな指先につつかれた鼻の頭をぼんやりと撫でながら枕はその向こうの、こちらは一般人レベルに小柄な少女へと目を移す。
 視線と視線が、交差する。なんとなくそのまま逸らさずにいたら、ぷいと彼女は顔を背けてしまった。
「草野、律花。十七歳」
 そして、名前と年齢だけを短く吐き捨てる。
 やっぱり、同い年であるようには到底見えっこない。そういって差し支えない、幼さを前面に表した仕草であった。
 やむを得ずこちらも視線をずらせば、それまで当然のようにそこにありすぎて気付かなかった、高そうな革の、大き目の茶色いボストンバッグが部屋の隅に置かれているのが、枕の目に映りこんできた。
 ご丁寧に『RIKKA』の五文字が黒い太マジックで記されたネームプレートまで、肩紐のところに結わえ付けられている。
 自分の持ち物には記名をしっかりしましょう、とは小学生に上がるまでによく親から子に対していわれることだけれど。
 あれを何の迷いもなく肩から提げてきたのだとしたら、なかなかの強心臓の持ち主だと、枕は思った。小学生じゃ、ないんだから。個人情報の保護云々以前に、かなり勇気の要ることではあるまいか。
 だから、同い年には見えないんだってば。
 

 
「さて。私は宇宙人です。……って言ったら、信じる?」
 唐突にやってきたその相手は、対面し向き合ってからの話の切り出し方もこれまた随分と唐突な仕様だった。
 ちょこんと腰掛けているのは膝を崩して座ればちょうど枕の目線より少しばかり下の、座卓の縁。中身を捨てて洗い流したコーヒーフレッシュポーションの中に一苦労して溢れないよう注ぎこんだ麦茶を両手に抱え、にこやかに少女はそんなことを言った。
「まあ、ここまで小柄な日本人、まずいないだろうしなあ」
 奇妙な納得の仕方だと、言っていて我ながら思う。
 少女の身体のサイズは、連れのそっぽを向いている子の比ではなく小さい。それこそ、小柄なんて陳腐な単語では形容しきれないほどに。ほんとうに、まさしく手乗りの人形サイズ。日本人どころか世界中探したってどの国のどんな肌の色をした人間の中にも見つからないに決まっている。
「うむうむ。いいよ、男の子。理解がはやくてよろしい。リッカのときなんかよりよっぽど楽だわー。リッカってば頭でっかちでがっちがちに硬いもんだから」
「……聞こえてるぞ、レイヤ」
 そのくせして、体格……骨格とでもいうべきか、体のつくりはしっかりと第二次性徴期以降を迎えた女性の……人間の身体つきをしているのだ。一言で言えば、出るところは出てひっこむところはひっこんでいる。おそらくはこのまま一般的な日本人女性の大きさに相似拡大したならば、自称十七歳の、連れの少女とは見比べるのが涙ぐましいほどに健康的な肉体美と彼女の幼児体型の間にある圧倒的な戦力差を見せつけてくれることだろう。どちらが勝者でどちらが敗者かは、言うまでもない。
 つまりは、成長しきっていない子供であるが故のこのミニサイズであるというわけではないということ。十二分に自我の確立された思春期以後の肉体を持った存在として、小さな彼女はそこにいるということだ。
「ちょっくら、おうし座のあたりの割と田舎のほうからきたんだけどね、私」
「おうし座? って、あの星座のおうし座?」
「そーそー。この星の言葉、概念で言うところのおうし座。大変なのよ、うちの辺り。ワームホールも跳躍装置もなくって交通の便、悪くってさぁ。銀河連邦のお偉いさんたちももうちょっと公共事業のやりかたってもんを見直したほうがいいわよねぇ」
 うだうだと、レイヤと名乗った少女は座卓上でお茶をすすりつつ地元(?)の愚痴を並べ立てる。
 はあ、そうですか。……と、枕は頷くより他にない。なにやら彼女の言葉の端々に出てくる単語のひとつひとつは、あまりにSF的すぎて現実味に欠け実感の湧かないものばかりなのだけれど。一方で吐き出される文句はといえばひたすら所帯じみていて、それこそその辺の主婦やら女子高生やらが世間話の合間に挟んでくるようなものと大差ないものなのである。
 つまるところ、よくわかるといった顔をすればいいのか、よくわからない旨を映した表情を返せばいいのか。聴いている枕自身、戸惑いやら違和感やらが様々に混ざり合ってうまく噛み砕けていないのだ。
「ま、それは置いといて。なんでまた私やリッカがここにいるかっていうと」
 枕の微妙なリアクションを知ってか知らずか、レイヤは話題を切り替えてようやく本題に移る。
「この星を、守るためなんだよね」
 人差し指を、天井に向けてびしりと立てて。軽い咳払いのあとに言った言葉はこれまた途方もないものだった。
「……はい?」
 何を言っているんだ、お前は。某国出身でハイキックが得意技の長身国会議員格闘家が、そう脳裏で真顔のまま呟いていったような気がした。
 思わず、目の前に腰掛けた少女へと前のめりになって彼女の顔を覗き込む。
 つん、と。近づけた鼻の頭を、応答の代わりにつつかれて、軽く押し出される。真剣そうだった表情は、ほんの一瞬のこと。柔らかな人間の指先そのものの感触がすぎていった鼻先を、その肌触りを確かめるように擦る枕へと少女はいたずらっ気に満ちた不敵な笑みとともに見返してくる。
「だ・か・らぁ」
 少女、曰く。彼女の住んでいる惑星系にて、政府より出されていたとある法令による規制が、つい最近緩和されたとのこと。
 それは他の星系・銀河系への個人レベルでの渡航許可。並びに、現地生物との交流に対する制限の一部解除であり。いずれも外貨の獲得に苦心していた政府役人たちがとある星雲に本部をもつ公的な全銀河規模の治安維持組織と提携を結んだためであるらしい。
「この星の言葉で有り体に言うなら……『宇宙監査局』ってとこかな。ここみたいにわりと未開拓なうえにきれいな星って多いから。密漁や別荘目的で侵略しようとして捕まる連中もけっこういるのよ」
 ゆえに、そういった者たちを取り締まるべき立場にあるはずの監査局は絶えず人手不足・人材難にあえぎ。そこに彼女の住むおうし座の政府(今、枕がそう心中で名づけた)は目をつけたようだった。
未開惑星を守って、きみも現地人たちのヒーロー・ヒロインになろう。そんなキャッチコピーのコマーシャルが連日、公共放送の番組の合間合間に間断なく流されるようになり。働きに応じ政府から報奨金、取材その他諸々の豪華な特典がつくと報された星系の住民たちは新たな刺激を求める若者たちを中心にこぞって役所に向かい、遠方の星への渡航と滞在の許可を求めるようになったのである。
 言ってみれば、監査局は人材を。政府は外貨を。市民たちは報酬とスリルとを欲しての三者相互の利害が一致したギブアンドテイクといったところか。
「つまるところ、ブームね。ブーム。惑星防衛ブーム」
「……バブル期の株ブームみたいなもんか」
 ちやほやされて、お金ももらえて。中にはアイドルとしてデビューした者もいる。俺も、私もと人々が二匹目三匹目の鰌を狙って殺到するのも無理もない話である。
「あんたも、それに乗っかってきた、と?」
「レ・イ・ヤ。……ま、いいわ。まあね、そんなとこ。かっこいいでしょ? 平和を守るスーパーヒロイン」
 えへん、と全体は小さくとも比率としては豊かな胸を誇らしげに張ってみせる少女。
 平和を守る宇宙人と云われ、枕は幼いころブラウン管の中に見た赤と銀色の特撮番組のヒーローをその単語に連想した。……生憎、その小さな女の子の姿とからは、ひとかけらも結びつくようなものは感じられなかったけれど。
あちらはとにかく巨大。今枕が目の前に見ている少女は、とにかく極小。
「見た感じこの星、内輪でもめてるわ技術レベルは発展途上だわで狙われやすそうな土壌はたっぷり揃ってるみたいだしね」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
 うん、うん。一人勝手に納得したように、レイヤは頷く。あながち間違ったことを言っているわけでもないし、否定をむきになってするほどに内戦や紛争を正当化する理由も義理も、枕には世界に対して持ってはいないが。まだ、いくつか彼女の説明では不明な点が残っていた。
「そんなちっこい身体でどうやって守るっていうんだ? それに、平和守るのになんで俺が殺されなくちゃならないわけ?」
 スーパーヒロイン、なんていったってこのサイズではどうしようもないだろう。宇宙人や怪獣が現れたとして、蟻の子のようにぷちんと潰されてしまうところしか見えてこない。なんといっても、その気になれば枕でさえも握り潰してしまえそうな大きさなのだから。
「大体、あの子は──……」
「あ、リッカのことも含めてそのことはこれから説明する」
 その前に、おかわり。空になったコーヒーフレッシュカップを差し出して、レイヤは麦茶を催促した。机上の紙パックから長ストローをスポイト代わりにして慎重に注いでやると、軽く呷り一息ついて、言葉を再開する。
 唐突に名前を出されたからか、大きいほうの少女はこちらのほうに目を向けてむっとした様子に目を瞬かせていた。
「四、五日前かな。この近くで大きな事故なかった?」
「事故?」
「うーん。火事とか、そんな感じで報道されてるのかも」
「……ああ。それなら」
 それならば、記憶にある。そこそこ近くにある私立高校の女子寮──残念ながら枕自身、ちょっとした事情でよく知っている学校だ──が、未明という文字通りよくわからない時間帯になんらかの理由で爆発、炎上しほぼ全焼してしまったとニュースで騒ぎ立てていた。
 幸い、入寮者が少なかったこともあり犠牲者は二年生の女の子ひとりだったという話だが。死人が出ているのに幸いも何もあったものではないと思う。
「あれ、やったの私。んで被害者の女の子ってのがリッカ」
「はい?」
 思わず、訊き返した。だれが──なにをやったって?
「うっかり、着陸の姿勢と場所、ミスっちゃってさぁ。到着ってより落ちたそこにちょうどいたのがリッカだったってわけ」
「ミスって……その一言で済む問題か?」
「悪いとは思ってるんだってば。私も、予想外のことで慌てちゃってさ。周囲見回してみたら建物は燃えてるわ、ちっちゃい子は倒れてるわで」
「ちっちゃいってゆーな! お前のほうがちっちゃいだろ! レイヤ!」
 聞き捨てならないことを言われた、という風に憤慨した様子で大きいほうの少女ががなり口を挟んでくる。いや、まあ……今回ばかりは、彼女のほうが正論だ。単純な身長だけでいうならば、机上の少女は抗議した本人よりも遥かに小柄なのだから。
「ただ私、そこでもポカやらかしちゃったらしくってね」
 生物同士の融合って概念、わかるかな。そう彼女から問われ、枕はしばらく首を捻りじっくりと考えてみて──どうにもあまりぴんとこずに、いいや、と横にその首を数度振ってみせる。
「……よく、漫画や特撮番組なんかであるだろう。ヒーローと主人公が合体してひとつになる。あんなのを想像すればいい」
 こちらは机上のマグカップにも手つかずの少女の声が、助け舟を出す。ようやく本格的に会話に参加する気になったのか、はたまたその頃合いだと思ったか。ぶっきらぼうは変わらずであったけれど、彼女の言った例えは平均的な日本人の男の子として幼少期そういったものに接してきた経験のある枕には、わかりづらかった単語への想像の助けとして理解をスムーズなものにしてくれたというのも確かな事実である。
「ふうん」
「な、なんだ。そんなじろじろ見て。何か文句でもあるのか」
「いまどきって、女の子もそういう番組見るのな」
「い、いいだろ別に……。それに小さい頃少し見てたってだけだ、そう、小さい頃に」
 今でも十分小さいと思うけどな。思ったけれど、言えば藪蛇になるだけなので、さすがにそれは飲み込む。二人のやりとりが途切れたのを見計らい、レイヤが言葉を繋ぐ。
 同じことを考えて。やっぱり言わずにそっとしておいてやっているような、そんな顔をしていた。
「ま、理解できたんならいいわ。私たちの星系では他の銀河や星に出かけていく際、環境に適応するためにその現地の住人の身体を借りることがよくあるの」
 想像するに、ヒーローは元の姿では三分間しか戦えないとかいう、ありがちなあれか。
「そうそう。それに融合しておけばその星で死んじゃったりしても、生命活動を停止するのはその肉体の持ち主だけだし。よくみんな使う手」
「……気楽なんだか物騒なんだかよくわからんな、それ」
「ただ、その場合条件があってね。私たちの場合」
「条件?」
 ため息を、ひとつ。どうやら本人にとっては彼女自身の言葉のとおり、かなり拙い失敗であったようだ。
 その条件とやらを、満たすことができなかったというのは。
「生きている相手との融合は、自分とその相手の能力を半々に分け合うことになる。だから極力、死んだ現地生物、相手との融合が望ましい。でなければ100パーセントの力は発揮できない」
 相手の意識が残っている場合、ひとつの身体にふたつの意思が存在することになる。そういった場合には、二人で身体能力その他を平等に、分割して得るという等価交換が成立してしまうというわけだ。
「で。ちょうど都合よく近くに倒れてたもんだから私、リッカの身体を碌に調べもせずにラッキー、って思って融合先に選んじゃってね。ちっちゃいから生命力もそんな強くないだろーしって」
 そこから先は、言われずともわかった。融合してみたら、彼女は気絶していただけで生きていたと。そういうことか。
 ビンゴ、と。親指を立ててレイヤは枕の予測した答えを肯定する。
「おまけにこの子、運動神経切れててさあ」
「切れてるって言うなよ! その、ちょっと運動が苦手ってだけだろ! それにさっきからちっちゃいちっちゃいってしつこいな!」
 ちょっと、か?
 身体の大きさは上の少女が、精神年齢的には上の少女へと食ってかかる。抗議の声をあげると同時に振り下ろした手が座卓の角を直撃し、背中を曲げて律花は蹲った。それはそれで少女にとっては精一杯の抗議であっただろうに、その仕草がなにより雄弁に、空しくもレイヤの言葉が事実であるということを枕に伝えてくる。
 そういえば、さっき投げたときも体重云々以前の問題に、身のこなしも何もないといった感じで軽かったっけ。
 なるほど。二人の能力を分け合うということはつまり、レイヤの身体能力が──……。
「この子の運動音痴っぷりを補うのに丸々もってかれちゃったってわけ。だって逆上がりも自転車に乗るのもできないっていうんだもん、リッカってば。おかげで変身体になるにも巨大化するにも、とにかく必要なエネルギーが逆に持ってかれるばっかりで溜まらないったらありゃしない」
「うるさいな! 補助輪がついてれば乗れるようになったんだからいいじゃないか!」
 怒鳴ってから、しまったという表情で律花は口元を慌てて押さえる。二人でひとつの身体を共有するようになってはじめて乗れたというのなら、逆を言えばそれまでは補助輪の有無にかかわらずまったく乗れなかったというわけだ。
 ひとりでさんざん、怒鳴って喚いて。語るに落ちた少女は頭を垂れてやはりひとりで落ち込んでいた。
「ま、運動神経の有無にかかわらず、生きてる人間との融合ってのは相手の意識が残ってるぶん完全な一体化とはいかないのが常なんだけどね。おかげで今こうやって、リッカの口を借りずに私ひとりで実体化してきみと話すことができてるわけだし」
 その点では、結果オーライか。
たしかに彼女の言うとおり、突然の来訪者たるこの二人にとってはプラス方面に働いた意外な要素であったのかもしれないが、枕にとってはそんなもの良くも悪くもない、ただ単純に蚊帳の外のことでしかなかった。
 いや、悪くないなんてこともない。というか、明らかに枕自身には不利益をもたらすもの以外のなにものでもないではないか。
 彼女が、失敗した。彼女が、運動音痴だった。
彼女が、もうひとつ失敗した。彼女が、生きていた。
そして、彼女と彼女が、適合しなかった。ゆえに枕を殺しにきている。
短くまとめるならば、そんな彼女と彼女が様々に引き起こした出来事が連なった結果に生まれた、一方的に巻き込まれる側の枕にとってはただただはた迷惑この上ない状況なのだから。
「相性的なものもあるんだろうけど……私にとっては最悪、リッカの肉体にとっては最高の組み合わせだったみたい、この二人が」
「それで、どうするんだ。──っていうか、俺はどうなるんだ?」
 事情は、概ね説明を追っていったことで把握できた。要するに彼女は、レイヤは律花に代わるあらたな拠り所を欲しているのだ。枕に対しての『平和のために死んでくれ』というのは、そういうこと。『私はこの地球を守ります、かわりにあなたの遺体が必要なんです』とは、考えるだに無茶苦茶だが。
「あ、身構えないで。そりゃたしかに同じポカやらかさないように適性やらをじっくり調べた上での人選ではあるけど、今はまだ分離も融合も無理な状態だから」
 なにごとにも、準備期間というものがある。レイヤのいう融合、一体化にもそれは必要なものであるらしく、まだひとつとなって数日の律花との同体状態はまだ十分な安定を得ていないということだった。
 そのまま分離すれば、レイヤも律花も肉体に大きな影響を受けるのは間違いない。そして相性があわず適性も低い、かつ双方が意識を残した状態で一体化した二人の心身が安定するのには平均よりも時間がかかる、とのこと。
「そんなわけだから、最低2〜3週間、あるいはひと月くらいはかかると思う。いきなり襲い掛かったりはしないから安心して」
「じゃあ、なんであいつはいきなり俺を殺そうとしたんだよ」
「だって、止めなくてもどーせリッカの運動神経じゃ大の男を正面から刺し殺すなんて無理だし」
「なっ」
 心外そうに声を上げたのは、もちろん枕ではない。律花だ。むしろ枕自身はレイヤの言い分に、思わず納得して頷いているクチである。
 だって、はっきりいって殺される気がしないもの。それこそ、不意を衝かれるでもしないかぎりは多分、絶対に無理。
「時期がきたら、知らせるし。もし一度殺しても、分離後はアフターケアできちっと生き返らせるのが未開拓の異星滞在時の決まりだから、融合が必要なそのときになってから改めて考えましょ」
「ああ……って、まさか」
 一見、もっともに思える真っ当な意見をレイヤは口にした。なるほどと素直に頷きかけて、枕は肝心ななにかがひっかかっているような気がした。ほいほい看過してはまずい、きっと問題になる。そういったものが喉の奥に引っかかって縦に振ろうかとされている首を押しとどめていた。
 そして直後、彼女は続けたのだ。ゆえに、枕は理解した。
「だからしばらく、ここに置いてもらうわね」
「……居座る気?」
「当たり前でしょ。リッカは世間的にはもう死人扱いだし、寮は私が壊しちゃったし。他にいくとこないもん」
 彼女の宿った肉体の持ち主たる少女の小柄な体格には、似つかわしくないほどの大きなボストンバッグの意味を。
 居候。そのために、部屋の片隅にそれは放り置かれていたということだ。
 枕が顔を向けると、ふんと鼻を鳴らして幾度目かになるそっぽを少女は向いた。
「変なことしたら、ただじゃおかないからな」
 生憎、ロリコンの趣味はないから。……などといったら、また大声で怒鳴りながら張り倒そうとしてくるだろうか。
 居座る、厄介になる側の相手にしては随分と態度の大きな、えらそうな居候がそこにいた。
 また避ける羽目になるのも面倒なので、枕は黙っていた。
「ほんじゃま、まずお風呂貸して。日がな一日待ちぼうけで、汗がべったべたして気持ち悪くってさぁ」
 もう一方は一方で、気安さが極まっている上に遠慮がなさすぎる。
 それでも、その小ささ。そしてふわりと腰掛けていたテーブルから浮いて少女の傍のボストンバッグへとそれがさも当然の行為であるかのごとくふわふわと『飛んで』いくあたり、やはり。
「……ああ、宇宙人なんだなぁ」
 紛れもなく今この部屋の中にあるのは非日常なのだと、視覚的に枕へと彼女の後姿は伝えていた。
「枕ー、バスルームの使い方教えてー」
 バスタオル代わりなのだろう、ハンドタオルのハンカチを引っ張り出して手招きするその口調は、もう呼び捨てだった。
 彼女が風呂から上がっても、まだ夜は長そうだった。
 訊くべきこと、問いただすこと。色々と全然わからない部分が、今のところ多すぎるのだ。時間もきっと、かかるだろう。
 ──それぞれ、レイヤに。
「……律花、ね」
「なんだよ」
「別に」
 思い浮かべた名前に、呟いた名前。どちらも三文字。噛み付く声が、背中の向こうに聞こえて。
 ようやく枕は、Tシャツの上の、ベストの上着を脱いだ。というか、今の今まで、脱ぎ忘れていた。
 それら名前の残響が、布に包まれたまま取り出した位牌へと、不思議に染み込んでいくようだった。
 どちらの名前もそれぞれに少しずつ、知りすぎているくらいに枕の知っている過去の存在の名に、重なっていたから。
 
 
 <2/へ続く>
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