でもss更新は一次。

 
四月に締め切りがあるので。ちとそっちにそろそろ集中したい……(汗
頒布物については次回の更新で。とりあえずスペースはち−25。「ち」島のはしっこです。
 
カーテンコールも更新しないと、と思いつつ一次創作ですー。前回はこちら
 
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Pulcherrima 〜妹と、異星人と〜』その5
 
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 急がずに、慌てずに。気の済むまでいってらっしゃい。レイヤはそう言って、二人を送り出してくれた。
 ハンターも、彼女たちに預けてきた。そのうち、連れて歩けるように、ティオーネがレイヤの使っているものと同じ、登録者以外の認識阻害を自動で行う不可視フィールドを組み込んだ首輪をつくってくれるという。
「持とうか」
 一応、身を包んでいる服装はそれぞれに黒を主体にしたものだった。けれど、完全ではない。あくまで、普段着の範囲。律花は昨日のショートパンツに黒のタイツだし、枕も同様にジーンズのラフといえばラフな格好。双方、きちんと上だけは襟のあるシャツに袖を通していたけれど。
 きちんとした正式の礼服なんてお互い持っていないし、かといって学生服は枕の手元にはない。入学をとりやめたそのままに、実家に置きっぱなしになっている。
それぞれ履き慣れたショートブーツとスニーカーで、目的地までの道を二人歩く。
「いい。……大丈夫」
 今は律花の両手には、小さな龍ではなく、そこの角の生花店で見繕った、厚みの薄い花束が抱えられている。
 構成しているのは、たった二輪。生前、令花が好きだといっていた花の色違いを、一輪ずつ。片手でも持てるそれを、律花は両手に大事そうに、抱えている。
 二人で、それぞれ色を選んで。二人一緒に、お金を払った。
「そう、か」
 とぼとぼと、歩く。特に律花は枕よりも少し遅れがちだった。
「律花」
「ん……わかってる」
 いざとなると、というやつだろうか。二人の足取りは、どうしても重くなっていく。
 一歩、一歩。その場所が徐々に近付いてくるにつれて。
「怖い、な。やっぱり」
「え……」
 次の曲がり角を曲がって。それからまっすぐ。それからまたしばらく行って、そして曲がればそこは見えてくる。
 枕も。律花も。意図してこの一年間、目を逸らし、遠ざかっていたその場所が。
「お前も、そうだろ」
 件の交差点ほどの大きさはなくとも、十字路で信号待ち。赤い信号を見つめながら、枕はぼそりと律花に呟く。
「……うん」
 律花も、俯きがちに肯定の声を小さく発した。潰れない程度に。胸に抱いた花束を、一段強い力で抱きしめる。
 行くと、決めたこと。見ると、決めた場所。それでも、この一年寄り付かなかったそこには独特の近寄りがたさというものがある。
 行っては、ならないような。
 身体そのものが、感覚が。行くことを拒んでいるような。
 形容しがたい強張りが、肉体を包んでいるのを感じられる。
「なあ、枕」
「ん……」
「わたしたち。……わたしたち、行って後悔──……ひゃっ?」
 やや重苦しくなった空気の中。言葉のキャッチボールに間が空いて、今度は律花からボールが投げられる。
 だが、それは枕によっては受け取られず。返事もそこそこに、律花の腕を掴み、枕は彼女を引き寄せる。ぴったりと、密着するほど。
「ま、枕っ?」
 ちりん、ちりん。──彼が律花を引き寄せるまで彼女がそこにいた場所を、ベルを鳴らした自転車が通り過ぎていく。
 律花のすぐ後ろから、切っていかれた風が二人の頬に吹きつける。
「大丈夫か? 鳴らすのが少し遅いな、あのチャリ」
「う、うん」
 花束を抱えた律花を、枕が抱きとめる格好になっていた。枕の胸から顔をあげた律花は、慌てて顔を真っ赤にしながら飛び退く。
「ご、ごめんっ」
「いや、いいよ。このくらい」
 律花の手にある二輪だけの花束を、枕は見る。
 大丈夫、少し包み紙に皴が寄ったくらいで、潰れてはいない。
 一方でなにやら律花は、大いに動揺していた。真っ赤──ほんとに、耳まで真っ赤。
「どうした?」
「な、なななんでもないっ」
「?」
 信号が、青へと変わる。とりあえず、枕は歩き出す。律花はまだ胸に手を当てて息を整えていて、慌てて後に続く。
「行くぞ」
「わ、わかってる」
 *
「わ、わかってる」
 まだ早鐘を打っている鼓動を必死に落ち着けながら、律花は枕の後を追う。
 なんのことはない。自転車が急にやってきて、自分はそれに気付かなくて。彼はその進路上から自分を引き寄せてくれた、ただそれだけだ。
 それだけの、ことなのだ。
 だが。
 ──だが。
(なにも、いきなりあんな風に……っ)
 あんな風に急に抱き寄せてくる必要は、ないと思う。
 姉──令花という存在が、ありながら。少し無神経すぎるのではないか。
 いくら自分が、その妹だからって。不可抗力だったからといって。亡くなった令花がいるにもかかわらず、こんなにほいほい女の身体を抱いてくるなんて。
 一向に冷めていかない頬の火照りに首をぶんぶん振って、頭から退いていかない先ほどの急な出来事とに思考が脳内を駆け巡っていくのを振り払おうとする。
「律花?」
「ひゃっ? えっ……あ、な、なんだっけ」
「いや、信号。また、赤だからストップ」
「あ……」
 そして、また。今度はいつの間にか後ろに回っていた彼から、手を引かれた。
 どきりと、振り返る。あちらは、首を傾げ律花の変調に不思議そうにしつつ、気付かずさしかかっていた横断歩道の向こう側を指差す。
 律花も、彼の言葉に頭上を見上げて、確かに『止まれ』の意を示している赤の歩行者信号を網膜に捉えた。……なんとなく、他数人の信号待ちをしている歩行者たちから、視線を感じる。
「わ、悪い。ありがとっ」
「?」
 なんといううっかりを、やってしまったのだろう。
 今度は、羞恥の赤面が、律花の顔を染めて覆っていった。枕の手を引き剥がすがごとく振りほどいて、彼の傍らで陰に隠れるように縮こまる。
「どうしたんだ? さっきからなんか変だぞ、お前」
「う、そ……そんなこと、ない」
「そうか?」
「そ、そうといったら、そうなんだっ!」
 ──しつこい。つい、大きな声を張り上げてしまった。
 ムキになった顔で、きょとんとした表情の彼を見上げ相対する。
 枕は、しばしそのまま呆けたように、無言でいて。それから、破顔して律花の頭を昨日のように、掌を乗せて大雑把に撫でていった。
「──わかった、わかった」
「わ、わかってないだろその反応はっ! ていうか、撫でるなって言っただろ、子ども扱いするなったらっ!」
「わかった、わかった」
 まただ。絶対に、わかってない。
「いやさ、やっぱりこうして並んで立つとあらためて、ちっちゃいなって」
「なっ……!」
 わかってたら、何度もこちらが抗議したことを、わざわざ面と向かってこういう風に言ったりしない。
 絶対、馬鹿にしている。絶対に、適当に考えている。
「令花と比べて、さ。ああ、あいつの妹なんだなって、思えるよ」
「──あ……」
 そう、思っていて。憤慨して。
 彼の続けたその言葉を聞いて、それから自分の抱いた彼への印象を、少し後悔した。
 仮にも、姉と付き合っていた相手を。そうやって、猜疑の目で見てしまった自分が、存在したということについて。
「ほら、行くぞ」
 ぽん、と。いい音をさせて背中を叩く。信号の色は、『進め』だ。
「セクハラだぞ、そういうスキンシップは」
 口を尖らせつつ、彼の足どりに律花も続く。今度はけっして、本当にムキになって言っているわけじゃない。
「そうなの?」
「ああ、無断でやるとアウトだ」
 へえ、初耳。
 そう気軽に言い返してくる彼に、少し意地悪なことを言ってみたかっただけだ。
 たったひとりの姉である令花を射止めた、その男に対して。彼女の、やはりたったひとりの妹として。
 また。
 他の誰でもなく、自分自身──草野律花、ただ個人がそういってやりたいと心に抱いた、ひとつの願望として。
悪意なく、そう思ったから。
 

 
 集中、集中。
「お嬢様。盗み聞きは感心できないと昨日、申し上げたはずですが」
「あー、もう。おだまりっての。今、いいとこなんだから」
「ですが」
「ですがもベスパもない! ついで言うと卑怯もラッキョウもない! だってやっぱし、気になるでしょーが!」
 きゅ。テーブル上に首を投げ出してだらけているハンターが、レイヤの背後で泣き声を小さく漏らす。
 その身体を背もたれに、レイヤは意識を集中させて、さきほどから枕と律花のやりとりをこっそり盗聴中。
ラッキョウ……食べたかったのですか? クセの強いものと聞いていますし、昨日の買い物の際は購入は見送ったのですが」
「いんや、全然。つか、あれおいしいの?」
「さあ」
 片や、この家にきて、テレビのコマーシャルで見ただけ。また片や、レイヤを追ってくるにあたり、事前に調べたこの星についての資料の中から得た程度の知識。
 いや。今はラッキョウのことではなくて。そんなことはどうでもよくって。
「ご心配なのですか?」
「んー。いや、言葉通りにちょこっと気になってるだけ」
「然様ですか」
 もはやおなじみ。枕お手製の、ポーションミルク改造のコーヒーカップにティオーネが紅茶を注ぐ。
 ごくごく、普通の動作で。通常サイズのカップへとそうするように淀みなく、またけっして注ぎすぎて溢すこともなく。
 長年彼女の傍で給仕の腕を見てきているレイヤの目からしても、実に見事かつ器用な手際である。
「ありがと」
「……いえ」
 尤も更に付け加えるならば、本星の屋敷だと、この上に彼女の服装は地球で言うところのいわゆるメイド服……給仕人としてのエプロンドレスなのだけれど。
 以前本星にて二人で出かけた際にその格好の彼女を連れて街を歩き回る羽目になったレイヤが厳命して、外出時には仕事着の正装でなく私服でというのを徹底させている。だから異星であるこの地球においても、一見、一般人と見比べてもさほどまで違和感のない服装・部屋着をコーディネイトしている。
「お傍におられる限り、常にお嬢様のお世話をするのが、私の役目ですから──……?」
 その彼女が、ふと窓の外を眺めた。ごく、一瞬。レイヤの背中でソファがわりになっているハンターの、大口を開けた眠たげな欠伸とほぼ同時に、重なるように。
「どしたのよ、ティオーネ」
「ああ、いえ。大したことではないのですが」
「何々、なんだかんだいってあんたも気になってるわけ、二人のこと」
 茶化すようなレイヤの言い方に、彼女は首を横に振る。
 仕える相手の非常に砕けたノリとは対照的に、あくまで彼女は冷静。一定。ゆっくりと、整然と言葉を紡ぐ。もちろんそれは付き合いの長いレイヤにとっては見慣れた、ごく当たり前のいつもの彼女だ。
「大気中の、宇宙線量です」
「ふえ? 宇宙線?」
 はい。主であるレイヤに、今度は首の上下を見せるティオーネ。
「お嬢様がこの星にご到着なされたのがほぼ一週間ほど前。そしてそのあとに続き、私が約三日前となります。これはよろしいですね?」
「うん」
 概ね、彼女の言うとおりだ。
「活動に問題のない環境の星であると、事前に当たった資料から得てはいましたが。念には念をということで大気中の成分分布を一日おきに計測していまして」
 そしてティオーネはシフォンスカートのポケットから、昨日レイヤに本星の父親へ連絡を勧めた際、渡した端末を取り出す。
 銀色で、やや丸みを帯びていて。ボタン操作ひとつで使用者の体格にあわせある程度までサイズ調整が可能な、ごく一般的に銀河系いたるところで使われ目にする類の代物だ。無論彼女の手の中にあるものは、機械オタクのティオーネの手によって、メーカー正規品、非正規品問わないオーバースペックなまでの改造が施されてはいるけれど。
 こんなものになにしろ彼女は、自爆装置まで装備しているのだからその改造レベルが知れようというもの。
「別に宇宙線や星外物質の増加なんておかしいことでもないでしょ? 現に他の星系から来た私たちがこうやっているんだから」
「ええ。ですが、微量ではありますが、我々の星系やこの星に辿り着くまでの航路から考えると、些か存在し得ないと思しき成分、物質の増加が確認されるのです」
 手を伸ばして。窓をからからと開き、外の空気の中へ彼女は端末を差し向ける。
 指先のボタンを、一回プッシュ。表示される数字や文字列を、レイヤの眼前に差し出して見せる。
「……マジ?」
「はい。こちらをご覧いただければおわかりになるかと」
 眼前に出されたそれを、レイヤは覗き込む。視線をひとつひとつ動かして、数値を上から順に読み取っていく。
「……ほんとだ」
「先ほども申し上げたとおり、微量ではあるのですが……それにその子──ハンターからのもの、というわけでもないようですし」
 続けて、レイヤの背後の小龍へと端末を向ける。表示される数値は、それまでとは異なるものがそれぞれに表れる。特に、彼女が指摘した成分に至ってはほぼゼロに近い。
「ふうん」
 心配性の父親が他の捜索チームを寄越したとか、そういうわけでもなさそうだ。
 ティオーネの言うとおり、検出されている宇宙線はレイヤの住んでいたおうし座星系辺りには、そもそも存在しないものなのだから。その可能性はかなり薄いといえる。
「いかがなさいますか?」
 おやおや。帰還するよう求めていたわりに、すっかりと補佐役のようなことを言うようになりおって。
 ティオーネの物言いに、そんな風に考えつつもなんだか可笑しさを覚えて、レイヤはほのかに笑みを漏らす。
 幸い、鍵は置いていってくれたし、携帯の電話番号とメールアドレスも二人分、枕と律花は書き置いていってくれた。つまり出て行ったところで入れ違いになる心配は少ないし、外出も自由ということ。
「……ちょっと、出てってみよっか。ハンターは私のフィールド範囲を広げて対処するし。このコ大人しいからそれでも大丈夫でしょ」
「承知いたしました。では、支度を」
「うん、お願い」
 しっかり、鍵とかはかけていかないと、ね。泥棒とか、不法侵入とか。されたら困るのは泊めてくれている枕なんだし。
「……ま、私の言えた義理じゃないか」
「はい?」
「んーん。こっちの話」
 ほら、ハンター。出かけるから起きるよー。ぺちぺちとそのお腹を叩いて、座卓上に転がるミニサイズのドラゴン型をした獣に起立を促す。
「その端末で濃度の濃い箇所とか、わかる?」
「お任せください」
 首を擡げて、大欠伸。いそいそと起き上がったハンターの背に、レイヤは飛び乗り跨った。
「その気になればこの端末ひとつで、この星に存在する生物全ての遺伝情報を余すところなく暴くくらいのことはやってお見せできます。ご安心ください」
 ──オーバースペックにも、程があるだろう。
 レイヤははげしくつっこみを入れたい衝動に駆られたけれど、その言葉はあくまでも心のうちにのみ留めておくことにした。
 処理能力のとってもすごい端末。うん、それでいい。それ以上は深く考えないし利用しなくて結構。つーか、使わせない。主人として、そこはしっかりと手綱を握る。
「っと、電気」
 点けっぱなしは、電気代がもったいない。
 ハンターに指で指し示して、羽ばたくその背の向かった先に、手を伸ばして。レイヤは、部屋の照明を落とした。
 せこいと、言うなかれ。
 これから向かうのは、昨日一昨日とやってきたパトロールのいわば縮小版なのだから。
 このくらいのほうが、スタートとしては丁度いい。レイヤは、そう思う。
 

 
 近くにあった交番には、一応声をかけた。
 そこであった事故の、家族の者です。そう言って律花が花を見せると、当直に居た警官はこんなもので悪いけど、と前置きしつつ、一度奥にひっこんでラベルのついていない、まっさらなペットボトルに水を注いで持ってきてくれた。
 多分、これにその花を生けなさい、ということなのだろう。ただ供えることしか考えていなかった二人には、その透明なペットボトルの提供はありがたかった。すぐに枯れてしまうよりは、少しでも日持ちしてくれたほうが供える側としてもやっぱり、嬉しい。
 交差点の、西の角。街路樹脇の花壇の隅。そこは、それとわかる程度に枯れて風化しかかった献花や、未開封のところどころ錆びた缶ジュースの缶がまだ残っていた。その場所に、警官に渡されたボトルに挿した花を置く。
「……母さまは」
 疎らに人通りが、車の往来がある中。倒れたりしないよう、花壇の土に底がしっかりと埋まるように、ぎゅっとボトルを押し込む。
「母さまは、ここには」
 その問いに答えることに、一瞬枕は躊躇した。そして、言った。
「……たぶん、来てない」
 来ていたらきっと、まだ真新しい花や供物の残骸が残っているだろうから。それに。
「つらいから、って。俺にももう連絡しないでくれ、って、葬儀のときに言ってたくらいだから、さ」
「……そう」
「お前は、話さなかったのか? 葬儀のときに」
 律花は俯き、首を横に振る。
「父さまだけだ。今の母さま……継母は、話してきていいのよ、って言ってくれたけど」
 むしろあっちのほうが私を、避けたいみたいだった。私も、父さまも。姉さまのことを偲ばせるもの、すべてを。
「お前のいうとおりなんだろうな。思い出したくないんだろう」
 律花の言うその光景は、枕にも容易に想像がつく。
 憔悴した顔で頭を振る彼女の母親が、令花の内位牌を渡す際にその条件を──もう会わない、連絡しない、姿を見せない──口にしたときの映像が、脳裏でそっくり重なったから。
 かつての夫にしろ、もうひとりの娘にしろ。娘の彼氏にしろ。喪われた者を思い出させる要因であることに、変わりはない。
 そのときに抱いた言い様のない罪悪感が、苦く心中に蘇ってくる。
「戻ってきた父さまを見ていて、会っちゃいけないんだな、って思ったから」
「そっか」
 軽く。彼女の背中を押してやる。
 一瞬、律花は軽く目を見開いてこちらを見上げてくる。
 枕は、懐から袱紗に包まれた位牌を取り出し。彼女の手に載せて、布を開いて。しっかりと握らせてやる。
「あ……」
 無言で頷けば、後押しはそれだけでもう充分だった。
 一度枕を見返した彼女は、位牌へと目を落とし、それを胸に寄せて。
「ごめん……姉さま。遅く……なって」
 今、自分たちの置いた花に向かい、言った。
「わたしも、枕も。来たから」
 それはもしかすると、何の意味もない行動なのかもしれない。
「……来た、から」
 そこには、花しかない。しかもそれは自分たちが今、供えただけのもの。遺影があるわけでも、その下に令花が眠っているわけでもない。墓標など、掲げられてすらいないのだから。
「わたし、も……っ、枕、も」
 だが少なくとも、その行為は二人にとって必要なものだった。それについては、疑いようのないこと。間違いのない事実。二人が誰に対しても恥じることなく、胸を張って言えることだ。
 俯いて言葉を吐いた律花の肩が、震えていた。
 枕は、一瞬躊躇した。
 彼女の、するがままに。そうさせておくべきか。──彼女を、労わるべきか。
 やがて彼が選んだのは、後者のほうだった。
 枕はそっと、律花の肩を抱いた。彼女から、言葉はなかった。彼を振りほどくような動きも、なかった。
 ふるふると。何度も、ふるふると。俯きがちな顔をただ、左右に彼女は振って吐息とも嗚咽とも、表情を窺えぬ枕からは判断のつかない短い声を時折漏らすだけ。
 律花は膝を折る。ゆっくりと、崩折れていく。彼女を抱いた枕も、その小柄な身体が静かに曲がっていくのにあわせて、その身を屈めた。
「来た、から」
 もう一度、律花は言った。
「……ああ」
 枕が打ったのは、短い相槌。
 行き交う人々からの、視線を背後に感じる。
 男女が二人、いきなり交差点の一角で身を寄せ合って蹲り、しかもそのうち一方は俯いて肩を震わせているのだ。
 目を引くのも、無理もないといえば、無理もない。
「ああ、来たよ」
 だが、そんなものは今は気にもならない。気にする必要性が、ない。怯える律花を乗せて自転車を扱いだあの時や、さきほどのうっかり赤信号に気付かなかった彼女を引き止めた時なんかとは、まるで感覚からして違う。
 今このとき、ここに『在る』ということ。その事実を認識し、なによりの重要と思うべきはただ二人。……いや、『三人』。
「来たんだ、令花」
 枕と。
「……っ」
 ただ、無言に頷く律花と。
 たとえこの地にもはやその身はなくとも、二人の心と記憶の中に存在する、『令花』という存在。その、三人だけの、その瞬間が、今。
 そう。だから。
『──うん』
 だから、こんな三文芝居のような声は。言葉は。必要なんかない。求めてなど、いないのだ。枕も。律花も。
「……え……?」
 必要であって、たまるものか。存在なんて、するものか。
『こっち』
 呼ばれ振り返った先にいたのがたとえ、その『令花』であったとしても。
 そこが二人の記憶でも、心でもないならば。立つその場所がどこであろうとも、たとえ死したときと同じ制服に、身を包んでいようとも。それは二人の知る『令花』ではない。
 だからそれは、『令花』であるわけがないのだ。二人にとってその相手がけっして『令花』だなんて、規定できやしない。
『やっと、きてくれた』
 律花の、生き別れたまま死別した双子の姉は。枕の想った少女は。もう、とうの昔にこの世の者ではないのだから。
 立っている、はずがない。車行き交う、交差点のその、中心に。
 たとえ、目が。耳が。その姿を、捉えたとしても。
『どうしたんですか、二人とも。そんな、変な顔をして』
 位牌はたしかに、律花の手の中にある。枕の置いた花は、変わらず、風に揺られてそこにある。
 
 
(7/以降に続く)
 
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