一次二次ともに作業中。

とりあえず今回は一次で、次回はカーテンコールでの更新になるかと。
あとそのうちテンペストを使って小話もう一本。
 
web拍手レスー
 
>なんというニアピンwwwwこの先輩さんは女形の早乙女氏みたいフラフラしませんように。
もうね、もろかぶりやんといささか首をつりたくなったりそうでもなかったり。
キャラ的にはぜんぜん違うんですけどねー。
 
 
 
てなわけで続きを読むからどうぞー。
前回分はこちら
 
 
 
 
− − − −
 
 
 
『sea and dust』4/ 想
 
 
 彼女のことだからきっと本当にやっているだろうな、とは思った。けれど実際に、思うのと見るのとでは現実として、印象の大きさが異なってくるものである。
「大学進学、しない? あずささんが?」
 汚れ仕事であることに配慮したのか白ではない、鼠色の着物の少女は襷で袖を捲り上げ、汚さないよう気をつけながら束子を墓石の表面に走らせる。擦っては、桶から水を汲み、洗い流し。流したそのあとに表面を傷つけないよう、それでいて苔や汚れは逃さぬようやさしい手つきでしっかりと擦り取っていく。
「ああ、そういうことだと思う。っていうか、若葉にも電話して訊いてみたけど実際に、進路希望とかもそんな感じで提出してないらしい」
「進路……」
 手を止めて、古びた水道に立ち歩いていく。捻った蛇口から流れ落ちるのはさも冷たさとは無縁の温いことこの上なさそうな、ちょろちょろとした水。首にかけていたタオルで汚れを洗った手と額の汗を拭い、黙り込む。
「アリス?」
 今日、自分の立てた予測に基づいてこの場所を訪れ、案の定に彼女と顔をあわせて。丹精込めて墓石の洗浄に精を出すアリスと言葉を交わすにつれて、彼女を呼び捨てることに違和感はなくなっていた。
 物静かで、無口な──しかし神社に生まれたというためかどこかほんの少し、普通の少女とは違ったところのある、不思議な一歳年下の女の子。
 彼女は、ゴムでひとつに括っていた長い後ろ髪を振り解くと、何度か身体をゆすり、桶の水面を鏡代わりにして手ぐしでそれを整える。
「なんでまた、私にその話を?」
 言うアリスの顔は、けっして迷惑という風でもなかった。ただ純粋に、疑問に首を傾げる、灰色の着衣の少女。
 なんで、と問われてまた、同じく守のほうも首を傾げる。……何故だろう。ふと思いついたのが彼女であったということなのだが、その理由を訊かれれば、明確にこうだと言えるものもこれといってないように思えてくる。
「……ほら。アリスの家神社だし。状況としては少し似てるのかなって」
「いや……神社を継ぐつもりかどうかなんて、私言いましたっけ?」
 いんや、全然。首を守が横に振ると、呆れたように長髪の少女は肩を落とし息をつく。
「たしかに元々そのつもりはしてたからいいんですけどね。実際、お祖母ちゃんが生きてたころから色々教わってましたし、役場のほうでも神社保全のために是非、とも言われてますし」
「今年、受験生だよね。一応」
「ええ。どこにも願書なんて出してませんけど」
 その意味では、大学受験に気持ちが向かっていないという点においてはもうひとつ下のあずさと彼女は同じであるということだ。ただそのベクトルは正反対。
 やりたいことがある、やるべきことのために大学進学を望んでいないアリスと、したくないこと、やりたくないことのために大学進学を拒むあずさとではその立脚点が異なってくる。
 ……しかし、それにしても役場からわざわざ頼まれているなんて。いくら他に継ぐ者がいない小さな神社とはいえ、予算の少ない小さな島の役場であっても一介の高校生に管理を任せるというのはいかがなものだろう。本島から人を呼ぶだけの労力を割くのも勿体無いということか。
「守さんはどうだったんですか? 受験のときは」
「んー。俺も『とにかく家から通いたくない、一人暮らししたいっ!』ってのがあって最終的に今のとこ選んだからなぁ。そうするとあんまり俺もあずさのこと言えないのかもしれない」
 したくないことがはじまりとなっているということについては、あずさと変わらない。自身の高校生時代を思い出して、微妙にこそばゆく気恥ずかしいような思いに駆られつつ、肩を竦める。
「けど、大学進学して島を離れるってのはそんなに嫌なことなんだろうか、あの子にとって。喧嘩して家飛び出していくなんて、よっぽどのことじゃないか」
「さあ……。なにか、理由があるとか」
 苔を綺麗に落とされた墓標たちは、ごつごつとした年季を感じさせる表面を、水の湿り気に黒く濡らし日光を浴びていた。もう、無粋な緑一色のコートになど彼らは身を包んでいない。水が、周囲の熱を奪い体感気温を一度か二度、下げているらしい。考えがゆだってしまうということも、特には感じなかった。
「たとえば、どんな」
「それはわかりませんよ。私はあずささんじゃないんですから。ただ」
「ただ?」
「私にもこの島を離れたくない、離れられない理由があるから」
 だからきっとあずさもそうなのだろうと、彼女は言いたげに言葉を切って守に表情だけを向ける。
 自分がそれを体験している。体感している。人が他人のことを推察するのには、なによりもそういった『経験』と呼ばれるものがその本人の中で大きなウエイトを占め、説得力となるものだ。
「ああ……お祖母さんと、神社と?」
 曖昧に頷いた彼女の仕草を、守は肯定と受け取った。なるほどと、これまで彼女と交わした言葉から導き出されるものとしては十分に理解できるものであったから。
「そういえば、アリスのお祖母さんってどんな人だったんだ?」
 流れ故か、ごく自然に守の言葉は繋がった。だが当のアリスはといえば意外そうに目をぱちくりやって、おかしなものでも見るように守へと身を僅かに心持ち乗り出して目を送ってくる。
 整った目鼻立ちがこちらをじっと見つめてくるというのも、なんだか不思議な感覚だ。特にいまのところ、親しい女友達というのが大学内に対してまだいない守にとっては、非常に新鮮に映る。
「あ、ごめん。嫌だったかな」
「え、あ。そういうわけじゃなくって。考えてみたらお祖母ちゃんのことを面と向かって誰かに訊かれたことなんて、今までなかったなぁ、って思って。ちょっと意外で、戸惑ってしまって。……でも、そうですね」
 両手を胸の前に軽く突き出して、慌てたように否定するアリス。そうか、と守が思っているうちにも、彼女はひとつひとつ、祖母との思い出を思い出しているのだろう、両手は前に出したまま俯き気味になっていき。
 悲しみや寂しさとは違う、あたたかな表情で、ぽつぽつと呟きはじめる。
「やさしい、お祖母ちゃんでした。父も母も、全然顔も知らなかったし記憶もなかったけれど、お祖母ちゃんのおかげで全然寂しい思いとかは、ほんと全くって言っていいくらいにせずに済んだんです」
「そっか」
 小学校の運動会や授業参観や。学校の行事らしい行事には殆ど欠かすことがなかったくらい、きちんと来てくれて。一般的にみても、いいお祖母ちゃんだったんだろうと思います。言う彼女の口元は、柔らかに綻んでいた。
「きっと、お祖母ちゃんが寂しい思いをしていたから。だからその分、私がそうならないよう、うんと気をつけてくれていたんだと思います」
 彼女のその表情だけで、故人の人柄が窺えようというものだ。ただほんの一瞬、それにも翳りが生じ、アリスは小さく肩を落として。
 私ではその寂しさを埋めてあげることはできませんでしたけど、と苦く自嘲気味にその微笑を転化させる。
「日本語も、とっても上手で。私には勿体無いくらい、すごくよくできたお祖母ちゃんだったんだなって、心から思えます」
「……?」
 もちろん、そんなものはすぐに思い出の温和な記憶の作る表情へとかき消えていく。
 日本語?
 若干、奇妙な言い回しではあったけれど。ひっかかるものも彼女の言葉にいくつかあったものの、守は彼女が、心底に祖母のことを慕い死別した今なお深く愛しているのだということを、実感できた。
 ……日本語。日本語? 宮司であると同時に、書道家か国語教師か、あるいはそれらに準ずるなにかでもあったのだろうか。まるで彼女は祖母にとって日本語そのものが、なにか特別他の言語とは違ったものであるかのように言う。
「それ、どういう──……」
「だから私、この島でお祖母ちゃんの代わりに待とうと思うんです。けっしてくることがなくても、ずっと。だから、この島を離れない。離れるわけにはいかないと思うから、神社を継ぐつもりです」
「……きみはお祖母さんのこと、大好きなんだな」
「はい、とっても。今でも」
 墓標に手を伸ばし、指先が濡れない程度に水分が乾いたことを確かめる。
 がさがさと音を立てて傍らに置いていたビニール袋から、昨日の炭酸飲料の缶を取り出し、ひとつひとつその前に供えていく。数は、多い。両手いっぱいからこぼれそうになっているのに対し守も掌を出して、いくつか持ってやる。彼女とは反対側のサイドへとまわり、外側から石段に徐々に戻ってくるようにしながら、紅い清涼飲料水の小さな缶を並べていく。
 表面の文字はあいかわらず石の色に同化し、掠れ。刻まれたその字体も読みづらいままではあったが、それでも前に比べれば読める。ちらほら、目を移すたびひとつふたつ、比較的容易に解読ができる文字が、苔のベールを剥がされたことにより確認できた。
「そういえば、お祖母さんはどこに?」
 眠る場所はどこか、という意図で守は訊ねた。無論この世のもので既にないと知っているからには、訊く側にも訊かれた側にも当たり前のことではあるが。
「いえ、お墓はここじゃないんです。一応早乙女の家の墓自体は少し登ったところにあるんですけど」
 祖母の、生前からのたっての望みで。お墓にお骨はまだ入れてません。神社の本堂にまだ、納骨してあるんです。
「望み?」
 最後の一個が、石段をはさんだ中央の二つにそれぞれ、置かれる。もう汗すらかかないくらいに炎天下に置かれぬくもったスチール缶はそれでも、素肌に対してはひんやりとした金属のその冷たさを、指先が離れていくその瞬間まで伝導させてくる。
 空になった白ビニールを、水滴を払いながらアリスはたたみ始めていた。こちらの短い問いは果たして、聞こえなかったのか、聞いても別に答えることではないと判断したのか、どちらだろう。
 あ、いたいた──……と。やや遠くのほうから聞こえてきたその女の声に守とほぼ同時に振り向いたからには、けっして耳が悪いわけでも注意力が散漫というわけでもないはずだ。
「若葉」
「おー、ほんとにいた。守さんと早乙女先輩って一体、どういう組み合わせ?」
 眼鏡をかけたタンクトップの少女がこちらに向かい手を振り、歩き近付いてきていた。そして挨拶もそこそこに、歩く速度は小走りになり、やがて二人の付近でぴょんと軽く跳ね、着地と同時に急停止する。
 なんだなんだ、とこちらが問うより、びしりとあちらが指先をつきつけてくるほうが早い。
 先輩、神社が暇なのって明日くらいまでですよね。守さんは、どーせ暇ですよね。質問ではなく確認が矢継ぎ早に飛び、二人はばらばらに頷く。……いや、頷かされる。
「じゃあ、海行きましょう」
 そう聞かされたのも多分、誘いの言葉ではなく、既に二人とも参加者へと数えられている決定事項であったのだろう。
「みんなで、海行きましょう」
 海ならすぐそこに、ちょっと歩けばあるじゃないか、なんて屁理屈もきっと通用しない。
 遅れて道の向こうから姿を見せ始めた、あずさが頭を押さえてやれやれと首を振っているあたり、おそらく彼女も巻き込まれたのだろう。
 海パン、近くの店に置いてあるかなぁ。いくら海に囲まれた離島とはいえ、訪問当初は泳ぐ気などさらさらなかった……というか意識の範囲外にしかなかった守はぼんやりと、そんなことを考えた。
 
 *
 
 ひょっとすると自分は、そうそうない、非常に恵まれた経験をしているのかもしれない。
「泳がないの?」
「……そういう、あずさこそ」
 音声だけ拾って文字に直すと、いわいるキャッキャウフフ、な砂浜の光景がそこには広がる。海に囲まれた島だからないわけではないとは思っていたものの、護岸工事を受けた港や岸壁・テトラポットばかりが海に面しているのを見慣れていたここ数日の印象からすれば、さらさらとした砂に満ちた海岸というものは目新しく映る。
 波打ち際から少し、海に入ったあたりに副数人の少女たち。若葉に、アリス。更に先日も見た双子と思しき二人の女の子は予測に違わず正しく双子であり、名前はそれぞれに葵、茜というのだとか。
 この海水浴は本来ならこの霊たちの帰ってきている時期に水場はご法度、というアリスを波打ち際だけだからと説き伏せた若葉が、彼女ら二人とともに計画したものらしい。
 もちろん、みんな水着。空気を入れたビニールのボールで海水に足をとられそうになりながら、四方に手を伸ばし、水を巻き上げバレーボールもどきに興じている。守がその中に入っていけば、まさにハーレム状態ということになるのだが。
「それ、私が金槌だって知ってて言ってるでしょ、マモルくん」
「あずさだって俺が泳げないの、わかってるだろうよ」
 悲しいかなこの従兄妹たちは血筋か遺伝か、はたまた単なる偶然か、二人とも金槌で。一応二人とも水着には着替えているものの共にTシャツへ、あるいはパーカーへ袖を通して、パラソルの下ストライプ模様のビニールシートを敷いた砂浜に、膝を抱えて並んで仲良く座り、少女たちの戯れる様を見物しているわけなのである。
 あずさが抱えていた両足をやおらに崩し、クーラーボックスの中の凍らせたスポーツドリンクを取った。白いTシャツの裾からは、鮮やかなオレンジ色をしたセパレーツの水着が見え隠れする。
 俺も、と守が言うとどれ? とクーラーボックスを開いたまま聞き返す。覗き込んで、守はウーロン茶を選び自分で手にした。
 胸元近くまで海水に浸かり、ざぶざぶとそれを掻き分けて進行する少女たちのビーチバレー……いや、海中バレーは、白熱していた。せいぜい開催場所の海水の位置が腰まで位であったなら二人もおそらく大手を振って参加しただろう。しかし金槌、いわゆる泳ぎのできない人間というものは得てして水位の高さというやつが苦手なものなのである。微妙におぼつかない海中での足捌きを他の皆の前でいちいち晒すというのも決まりが悪いことだし、二人は泳げない者同士仲良く、水を飲むのもなんのその、鼻に入ろうとむせようと気に留めることのない少女たちの熱戦をあくまでも傍観する側に立っていた。     もちろん波打ち際まで彼女たちが戻ってくれば、加わるつもりはしているけれど。
 白。水色。赤。オレンジ。色とりどり、四種類の水着の色が、灰色の海の中から現われ、そしてまた飛び込んで消えていく。守だって人並み程度には108種類のいずれかに該当する煩悩を抱えている健康な年頃の男だし、見ていてその光景は悪い気はしない。今は遠くに見える、眼鏡をはずした若葉も予想していたよりずっと、かわいい顔立ちをしていた。
「こらー。あんましやらしい目で見てると、セクハラで訴えられちゃうぞー」
「失敬な」
 ぽこん、と頭に軽い握りの拳骨が振り下ろされ、茶化すようにあずさが笑った。
「しかし、まあ。よく『海行こうー』なんて言い出すよね、若葉も。毎日嫌ってほど見てるのにさ」
「んー……確かに、なあ」
 四人の少女たちが水中でくんずほぐれつ、バランスを崩したりそうでなかったりしなかったりする様は常日頃「彼女ほしい〜」とかなんとかほざいている大学の友人あたりに写真を送ればさぞ羨ましがることだろう。ふと思いつくだけでも心当たりなど両手の指では足りないほどにいる。いや、だからといってやらないけど。
 むしろ少女たちの肢体に色気を感じると同時にいやー、元気だなぁなんてしみじみしたものを感じてしまう自分のほうが涸れていて、年寄りくさいのだろうか。
 そうこうしているうちに、日差しに耐えかねてかあずさはタオルを頭から被る。ぱっと見では暑苦しいが、小さなパラソルだけでは如何せん日光が強すぎる。
「暑いならちょっと水に入ってくればいいのに」
「あー。でも日陰から出たくない。動きたくない」
「それは……納得できる理由だな」
 無駄な肉付きのない、露出した彼女の腹部を一筋の汗が伝っていく。わりと活発でノリのよい彼女が、今日はやけに低いテンションでけだるげだった。……もっと正確に言うならば、一昨日の家を飛び出した一件以来、彼女の微妙なローテンションは続いている。なにか、言うべきなのかもしれないと思う。だがしかし、進学のことともなると結局は本人と親との間の問題だ。自分にやれることといえば経験を聞かせたり、相談に乗ったりするくらいしかない。それだって詳しい事情や、彼女が進学を拒む理由も知らない自分がそんなことをしたところで、外野の無責任な声にしかならないだろう。
 水着になってもやはり、彼女は白のリストバンドを外していない。よく使い込まれた……けれどそれでいて、殆ど汗を吸わせるという本来の用途に使ったことはないのだろう、さほどくたびれた様子のない、一切の解れなどの見当たらない白い生地が、次から次へと生産される汗を拭き取るタオルの動きに合わせ揺れる。
「やっぱり海は、この色だよね」
「そーいえば、夜の海は嫌いなんだっけ」
 もういい、とばかりにタオルを振り払い、あずさは立ち上がった。いよいよもって暑さに耐えかねてきたのだろう、両腕で軽くストレッチなどしつつ、海岸線に目を走らせている。
 グレーと青の交じり合った濁った色合いが、飛沫を上げて強く弱く、砂浜に打ち寄せる。
「泳ぐの?」
「んーにゃ。足浸けてくるだけ。それでもいくらかは暑さざましになるでしょ。くる?」
「いや、俺はいいよ。荷物の番してる」
「そっか」
 この平和そのもの、碌に犯罪も起こらないであろう島においてそんな用心など不要のものだとわかっていながら、守は頭を横に振る。
 対するあずさはそれ以上無理に誘おうとすることなくうーん、と伸びをひとつ。直後、なにかを思い出したように、ビーチサンダルを脱ぎ捨てた彼女のつま先が、踏み出そうとする足を押しとどめる。
「そういえば、さ」
 非力で身体を使うことが苦手という印象の強かったアリスも、後輩四人に交じり海上でのボールの応酬になかなか健闘していた。物静かなイメージだった表情も、女三人寄ればという言葉にふさわしく、控えめながらもよく揺れ動き、彼女の感情をよく表していた。ああいう一面もあるのかと、見ているこちらには少し微笑ましい。
 だから。そちらを見ていたからうっかり、あずさの言葉を聞き逃しそうになってしまった。
「あのときの海は、真っ青だったよね。カキ氷のシロップの合成着色料かなにかか、ってくらいに透き通ってて、きれいで」
「うん……うん?」
 海が、青かった。たしかに今彼女は、そういった。海が……青い、だって?
「ほら。マモルくんのお父さん……おじさんに小さい頃、一度連れてってもらったじゃない。こことは海岸から何から雰囲気も違う感じだけど、同じように砂浜でさ。あれ、どこだったんだろ。島の反対側とかかなぁ」
「父さんに……?」
 あずさの言には、まったくもって身に覚えがなかった。海を見に行った。いつ。幼い頃。誰と。父と、あずさと。そして見に行ったその海はまるで作り物であったかのように透き通った、空の色を写し取ったような一面のブルーだった。だが、自分の記憶の中にそれに該当するイメージは存在しない。────いや。
「あれ、覚えてない?」
「……あ……」
 言われるまできっと、忘れていた。そうだ。あれはもっと、ずっと二人が小さかった頃のこと。なにかが。なにかの記憶がおぼろげに、守の内側に呼び戻されてゆく。
 青。水の青。たった一度きり見ただけの、空の色よりもずっとずっと青い母なる水面を染める色。
「まあ、私が三歳とか四歳とか、そのくらいの頃のことだしね。忘れちゃってても無理ないか」
「いや……たしかに忘れてた。忘れてたんだ。だけど」
 弾かれたように守は立ち上がり、太陽の下一筋に延びる水平線にじっと視線を注ぐ。
 そこにある海は、純粋な青色ではない。──あの日、見たものではない。少しずつ、光景が記憶の靄の中から甦っていく。
 真っ青な海を、自分は一度見ている。そう、見ている。幼い日一度見たきり、まったくどんな場所もそうではなかったその色が、瞳の奥に同化して自分自身認識できなくなるほど、焼き付いている。
 少女たちの戯れる、波打つ海。ひとりひとりを見遣っていくと、白の水着を身につけたアリスだけはこちらに気付き、小さく手を振り微笑んでみせた。
「そ、っか。そういうこと、か」
 大学生活、はじめての夏。したいと思い行動に移すことのできる選択肢は、もっと数え切れぬほどあったはずだった。そんな中で実家への帰省を蹴り、この島に来た能動的な理由は漫然としていて自分自身、よくわかってはいなかった。
 ただ、なんとなく。他に行くところもないし久しぶりに行ってみるか程度の感覚でやってきたものだとばかり、自己の中では思い込んでいたのだ。
「……どうしたの。そんな一人で、納得したような顔して」
 けれど実際は、違ったのかもしれない。実家とか、そういう人間的な繋がりとは別に『思い出』という美化されたしがらみに、自分は忘れかけていたそれに、無意識に惹かれ焦がれていたのかもしれない。
 自由になった、はじめての夏に。数ある選択肢を捨ててあずさたちの下を訪れ久闊を叙したのは、自分が再度目のうちに納めたいと思っていたものがそこにあったから。
 ああ、思い出してきた。青い、青い海だ。それは確かにこの島にあった。少女たちの躍動するこの灰色近い海と、どこかで繋がり空以上に深くも透き通ったブルーで、ただたゆたっている。自分は幼い日、それに目を奪われた。そして以来、それ以上の『海』を強く印象付けるものに出会いはしなかった。自分の見てきた海はどれも緑や、黒や、灰色やくすみ濁った青だった。二分化されてしまった海のイメージの、片方だけが満たされ続けていたのだ。身近にある海。傍に暮らす自分たち人間と同じように、綺麗なだけではけっしてない海。その対極にある、自分が殆ど接してこなかった不可侵的な海を、きっと自分は求めていた。
 理屈では、ない。青い海の記憶、一度きりの思い出。それらはどんな理論的な言葉よりも深く、守自身を納得させていく。どうして自分がこの島に来ようと思ったのか。何を求め、望んでこの島へと足を向けたのか。なんとなくの内側に隠れていたものを、彼は思考ではなく感覚で認識する。
「そうだ……な。この島のどこかに、あんな綺麗な海があったんだよな」
 ビニールシートの上から砂浜に足を踏み出すと、からからに乾ききった海草の混じった砂が、さくりと音を立ててビーチサンダルの下に陥没した。
 見慣れ当たり前であった海とは違う海が、この島のどこかにある。それを思い出すことができたというだけで、訪れた甲斐があったのかもしれない。
「また行きたいとか、思ってる?」
「……少し」
 焦がれる気持ちは、ある。けれどそれに乾いて乾いてしかたがないという、盲目的な願望もこれといっては、なかった。
 思い出しただけで、いい。もちろんそれに加えてその光景がどこにあるかを呼び起こすことが出来、そこにもう一度行くことが出来るのならばなお、言うことはないが。
 そのクリアな青のイメージは、脳裏に十分すぎるほどに思い描ける。今もなおそこがブルーであるという保障はないけれど、記憶の中のそれは青いままだ。だったら、それで十分。自分がこれでいいと思えることを、自分に強く印象を与えた「普通でない海」の存在をいつでもこれから思い出すことができる。
 そこに連れて行ってくれた、父の車も。今と同じようにやはり強かった太陽の日差しも。隣に並んで二人、一緒にその光景を目にしたあずさの顔も──……?
「え?」
 二人、という自分の心中に浮かび上がった単語が、守の意識をブルーの海から引き離した。
 あずさと、自分。父はあのときたしか、車に残っていた。そうだ、自分とあずさしかあそこにはいなかったはずだ。あの砂浜には。
「違う」
「マモルくん?」
 あの砂浜には、二人しかいなかった? まさか、そんなはずはない。たしかに自分は、覚えている。あそこには自分と、あずさと。
「あずさ」
 少年がひとり、いたはずだ。もう、ひとり。自分以外に。
「優樹は、どうしたんだ」
 あの日。あのとき。幼かった自分の掌は左右が塞がっていた。右手に、あずさの左手を。またもう一方には少年の手を強く握り締めて。海の色に見とれ呆けるまでは最年長として幼い責任感のもと、二人の保護者としてふるまっていたはず。海の記憶とともに呼び起こされ、流れ出るようにして守の口を衝いて出た名前にあずさの表情が一瞬鼻白み、強張ったのが彼女と顔を向けていた守にもわかった。
 優樹。それはそのとき、守の左手を確かに握っていた少年の名前。右手を繋いでいたあずさにとってはたったひとり、血を分けた年子の、実の弟の名。
 あずさの目が守の視線から離れ、移ろった末に地面を舐めた。
「そ、っか。思い……出しちゃったんだね。優樹のことも、マモルくん」
 なんとなく、しまった、という気がした。若葉から誘われた際に、聞かされていたのだ。
 彼女の立てた、この計画はひと悶着のあったあずさを元気付けるためのもの。あずさに、こんな顔をさせるのでは、本末が転倒している。
 その名前を自分は、口にするべきではなかったのであろうか。
 
 *
 
「え? あずさに弟?」
 空も、海も。もうすっかり色を濃くして、黒く塗りつぶされている。守以外の人数は五人から四人へと減っていた。
 ぱちぱちと音を弾けさせる線香花火を手にする中に、あずさの姿はない。
「またまたー、聞いたことないですよ、そんなの。あずさ本人からだって全然」
「いや……本当なんだ。いないわけがない。いなきゃ、おかしいんだよ」
 彼女のためにと親友の少女が開いたこの一日は、その主賓たる人物を欠き、終わりを告げようとしている。日に当たりすぎたみたい。夜の海って苦手だし、みんなで花火、楽しんで。
 気のない様子でそう言った守の従妹はとうに、自宅へと戻ってしまっている。守さんも戻らなくていいの、と訊かれれば事情を話すよりほかにはない。アリスと、若葉と。顔を突き合わせしゃがみ込んだ手に握った線香花火は、思っていたよりずっと長く、けれど期待していたほど強い光もなく燃え堤防の上へと火花を散らし続ける。
「たしかに、いたはずなんだ。少なくとも俺やあずさが小さかった頃には、絶対に」
「でもあたし、中学の頃からあずさとは友達やってますけど、それらしい顔なんて一度も見たことないですよ?」
「それなんだよ」
 守の中にある、あずさの弟──たしかにいたはずの、少年の記憶。それが伝えるものは、はるか昔のことばかり。まさにあの日までが在りし日としかいえない、そのレベルで止まっている。
「あの日。蒼い海を一緒に見た。そのことははっきりと覚えてるんだ。あずさと、俺と。あずさの弟……優樹の三人で、たしかにあの蒼かった海を見たんだ」
「蒼い……?」
「海、ねえ」
 いつ頃のことだったかまでは、細かいことはさすがに記憶の外だ。なにしろ、当時はまだ守自身幼すぎたし、昔過ぎる。
 思えば、守が中学に入り。この島を訪れていた頃には、自分は彼女と二人であったような気がする。三人であった従兄妹同士は、いつからかそれが元からの形であったように数を減らし二人へと変わっていた。小学校の頃はどうだったろう。たしか、島にやってきた年とそうでない年とが混在していて。
 ひょっとするとその間になにか、彼女を取り巻く環境に変化が起こったのかもしれない。──……変化?
「あっ」
 そう考えていくと、ひとつ思い当たる節があった。あれはたしか、小学校二年生の夏。帰省も間近の時期ともなり、あとはその日を待つばかりとなっていた頃のことだ。
 父が、電話をしていた。内容はまったく幼かった自分には伝わってこなかったし、わからなかった。ただ、電話を切った父は、機嫌があまりよくはないようだった。
 たった一本の電話。それだけでその年の帰省はなかったことになり、小学二年の夏は結局どこへも出かけることなく過ぎていった。
 それからだ。年中行事ですらあった、この島への来訪が決まりきったものでなくなり、隔年に近い形へと変化し始めたのは。三年あれば、二回。けっして疎遠になったという感覚はなかったけれどたしかに、回数自体は間違いなく減っていった。
 同時にその頃は既に、三人であった幼い従兄妹たちは自分とあずさだけの二人が当たり前になっていた。最初から一対一の関係性しかなかったかのように、二人しかいなかった。
 周りの大人たちも何も言わず。自分も──最初の年こそはそこに疑義を感じたかもしれないが──違和感を差し挟むことなく。あずさも、それが普通のことであるかのように振る舞い、正しくその態度はまるきり普通のものとなった。
「そういえば、あずさのお父さんは? あたし一度も見たことないんですけど」
 家族といえば、と若葉が人差し指を立てて首を傾げる。
幸いにして、守のほうでもその答えについては用意があった。よく、知っている。
「本土のほうで、医者やってるはずだよ。たしか外科の先生だったかな」
「へえ。どんな人なんです?」
「どんなって──……」
 どんなだろう。すらすら言えるはずの言葉を口に出しかけて、そこから先が詰まった。
「……あれ?」
 まず、顔が出てこなかった。次に、声。雰囲気さえも、何度記憶の奥底から呼び起こそうとしても一向に現れ出でる気配すらない。いや、そもそも縁が離れきっているわけでもない従妹の父親……叔父の記憶がいちいち呼び起こさねばならぬほど深層に埋まっているということのほうがおかしいのだ。
 覚えていないというより、知らない? まさか、そんなはずは。仮にも叔父と甥の関係において、そんなことがあるはずは。
「……俺、会ったことないかもしれない」
 それでも、自分の中にある記憶には、一片たりとも又聞き以外の情報による、叔父についての明確な映像や音声は残ってはいなかった。何度、この島に来た。何度、あずさの家で遊んだ。数えるほうが面倒なほど、その回数は二桁に達しそれぞれに違った出来事があったというのに、叔父との対面はそこにはない。
「なんで、だ」
「いや、なんでって。言われてみればあたしもあずさからお父さんのこととか、全然話してもらったことないしなぁ」
 若葉と守。二人して、首を捻る。
「蒼い……海……蒼い……」
 ただ、「三人」というグループにおいて唯一アリスだけは事情を異にしているようであり。彼女の繰り返す、虚空への呟きに二人が向けた視線にも気付くことなく、彼女はぶつぶつなにやらやっている。
 声をかけても、反応はなく。肩を軽く叩いても、無意味。やや乱暴に肩を揺すり、耳元で名前を呼んでようやく、我に返り彼女は二人の顔を交互に見返してくる。
「アリス?」
「あ……ごめんなさい。どこまで話、行ってましたか?」
 自分が話についていけていなかったことに恥ずかしげに頬を染め、燃え尽きた線香花火に目を落とす。元々たくさん買い込んだわけではなかったから、開封したビニールの上に並べた残りはもうあまり多くはない。海の際……ボラードの傍では、こちらの様子に気付いているのかいないのか、双子の姉妹がロケット花火を甲高い音を鳴らして打ち上げている。
 ため息混じりに、守は彼女へと伝えた。
「叔父さん。あずさのお父さんのところまで」
「……すいません」
「どうしたんだ? ぼんやりして。なにか気になることでも?」
 頭を下げるアリスに、守は問い返す。躊躇したように、目を落としては持ち上げ、持ち上げては落とし。やがてやや上目遣いに、アリスは言葉を発する。
「いえ。ただ、『蒼い海』なんてものを知ってるのなら、夜の暗い海が嫌いだって彼女が言うのもなんとなくわかる気がして」
 花火の尾を曳く光が、黒一色の海上に輝いては消えていく。少女たちの打ち上げるそれらを三人、一緒になって見やる。
「一番きれいなものを知っていたら。正反対に暗くて、埋もれてしまいそうなものが苦手になるのも、無理ないのかもしれない、って」
 
 *
 
 蒼い海。その言葉が特別なのはきっと、自分のほうだ。白々しい誤魔化しの嘘を吐いた自分を嫌悪しながら、アリスは心中でひとりごちる。
 それはあまりに夢見心地で、現実感の足りない美辞麗句に過ぎないものだった。少なくとも、ほんの数分前、彼の口から聞くまではそうだったのだ。
 彼から。彼と彼の従妹がかつてそれを実際に見たことがあるなんて、聞かなければ。空想上のもの。この島から出るつもりのない、出るわけにはいかない自分にとってはあくまでも遠い世界にしか存在し得ない夢のまた夢の光景でしかなかったのだから。
「蒼い海云々がなくても、彼女が夜の海を好きになれないのは感覚としては少し同意できますけど」
 ああ。また、懲りずに自分は誤魔化す。少しどころなものか。ほぼ全面的に、同意できるくせに。
「私も……夜の海というのはあまり好きじゃないですし」
 夜の海は嫌いだ。自分もまた、はっきり言える。なのに、偽る。
 人がそこに期待するものすべてを塗り潰し、否定するような群青交じりの黒。そればかりを見ているのは辛い。人が待っていたものを知っているから。もう一度行きたいと望んだ人間のその思いすら、海そのものに否定されているように感じられてしまうから。だから、嫌いなのだ。夜の海というものは。
 笑顔。痩せこけた頬。骨と皮ばかりの腕。最期までその人が望んでいたものは、夜の漆黒に埋もれた海などではない。そう、蒼い海。幼い日の青年や、彼の従妹が見たというものときっとそれは同じものであるはずだ。
 理由もないのに、確証に近いものがあった。この小さい島だ──そんな人の印象に残るようなものが、二つも三つもあるはずがない。たとえひとつが数十年もの昔確認された存在であり、もう一方が十数年足らず前の記憶に残っている世代を大きく隔てたものであったとしても。
 在りし日の人物の、しわがれた掠れ声は今でも鮮明に思い出せる。肉感をけっして失うことなく、鼓膜の内側の形なきテープレコーダーが、再生してくれる。
 自分はきっと今、戸惑っている。そして躊躇している。絵空事、自分には出来ないことであると諦めきっていた事象が可能性を帯びたものとして、目の前に提示されたことに。
 身に着けた着物の袖口を、静かにぎゅっと握り締める。この服を着ている限り、けっして忘れるつもりはなかった。けれどそこに向かうことが出来る、そう望むことが出来る、その可能性すらやってくるとも思ってはいなかった。
 声には出さない。出さないけれど、唇の動きだけで静かに呟く。たった一言、お祖母ちゃん、とだけ短く。自分が今その身を包んでいる着物の元の持ち主が望んだことを、自分が代わりに果たせるのかもしれない。そうなれば、自分はどう考え、どう動くべきなのか。帰ったら、もう一度よく考えてみよう。
 祖母の遺したものを、手にとって。
 祖母へと祖父が遺したものを再び、目に焼き付けて。
 
 
(つづく)
 
− − − −
感想・意見などありましたらどうぞ