sea and dust。

 
てなわけで今回で一次創作『sea and dust』、最終回でございますー。
なのはss目当てで来られてる方々、ラノベっぽさのかけらもないこの作品に長々お付き合いいただきありがとうございました。
後学のためにも感想などいただけたら幸いです。
前回分はこちら。それでは、続きを読むからどうぞ。
 
 
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『sea and dust』8/ 蒼(完結)


 あつらえたようにぴったりというのは、まさにこのことをいうのだろう。
 腰の帯は上手に巻かれているし、きつくはない。白を基調とした笹の模様の浴衣はまるで、自分の身体に吸い付くように着心地もよかった。姿見の鏡の前で何度か振り返っては向き直りを繰り返してみても、わが姿ながら悪くないと思えた。
「よかった。よく、似合ってます」
 たったひとり、選んだたった一着のためのファッションショーもどき。ぽん、と拍手するように両手を打った先輩だけがその観客だ。あちらは相変わらずの巫女装束のままだが、日本人離れした外見にもかかわらず、地が整っているおかげかやはりよく似合っている。
 着付けからなにからほぼすべて任せきりにしてしまった手前、あずさとしては恐縮することしきりだ。
「でも、よかったんですか。これ、お祖母さんの……」
「ええ。お祖母ちゃん、海外の人にしては小柄なほうでしたから。あずささんとも体格的に似てるかもと思ってたら、やっぱり正解でした」
 偽りない喜びの感情が、アリスの表情からは溢れている。こちらの気遣いや心配はむしろ、水を差す杞憂にすぎないということか。
「私なんかが着て、よかったのかなぁ」
 それでも彼女の祖母の遺品──大事なものであると聞いたからこそなおさら、こちらとしては一層自分が着てしまっていいのだろうかと遠慮してしまうのだけれど。気にしなくていいとばかりに、アリスは首を横に振る。
「蒼い海のことを知っている人に。また見たいと思ってくれている人に着てもらえるんだったら、お祖母ちゃんもきっと喜んでくれますから。だから遠慮なんて、しないでください」
 意外に時の流れというのは早い。若葉がその場を離れて二人だけになってもなんだかんだで話は続いたし、途中顔を出した役場の人とアリスが打ち合わせをするのを眺めていたり、浴衣を着付けてもらっている間に、時刻は既に夕方だ。
 家には、神社に行ってくるとだけしか書き置いてこなかったけれど。基本的に外泊さえしなければなにも文句は言わない親だしこのまま祭りに出てしまっても問題ない。
 守も今頃は家に戻っていることだろう。おそらくは無駄足に終わった遠出の疲労感を、その身体に携えて。そのまま眠りこけているかもしれない。海霊祭にでてくるかといわれれば昨日のこともあるし微妙なところだ。
 と。
「あ、携帯。携帯、携帯」
 着てきた服を脱いで畳んだ上に置いていた携帯電話が、着信を告げる。うっかりミニスカートを穿いていたときと同じ感覚でしゃがみこもうとしたら、裾のことを忘れていてつんのめりかかる。和服を着慣れていないのだから仕方がない。くすりとアリスが笑い、流石の慣れた動作で衣服の上から携帯をとりあずさへと渡す。
 どうも。ありがとうございます。さて、誰だろう。開いて通話ボタンを押す前に、相手を確認する。
「あれ、マモルくんだ」
「あら」
 噂をすれば、というわけでもないけれど。丁度頭に浮かんだ相手からの連絡というのも、なんだか不思議なものだ。せっかく膝を折って座ったのだからと、浴衣の入っていた着物の箱を押入れにしまおうとしていたアリスも、こちらを向く。
「もしもし?」
 電話が繋がるとほぼ同時に、表のほうで乗用車の停止するブレーキ音が地面とタイヤを軋ませた。
『あずさ? 今、神社か? アリスと、これからちょっと出てこられるか?』
 応対した声は、電話越しにも彼の興奮を伝えてきて。まくしたてられ一度に並べられたいくつもの質問に、あずさは困惑する。
「なに? どうしたの突然。そりゃ、神社だけど……」
『じゃあ、表までアリスと一緒に出てきてくれ。タクシーで神社の前まできてるから。わりと急ぎで、よろしく』
 答えも訊かずに、守の声はそこで途切れた。通話時間はほんの十秒程度。無愛想な電子音だけがスピーカーに残される。
 親しき仲にも……という言葉があるように、流石にこれにはあずさもむっとした。一体全体、どうしたというのだ。それにこちらは自分ひとりではない。先輩だってそこにいる。都合も訊かず一方的にまくしたてて、要求して通話をとっとと切って。理由くらいは言え、理由を。
「……なんか、表まで出てきてくれって、マモルくんが」
 あなたと、私に。自分とアリスとを交互に指し示すあずさ。その動きに「自分もですか?」と首を傾げるアリスへと、「その通りです」とも頷いてみせる。
 もう一度首を傾げてから、白と赤の巫女装束の先輩は壁の時計に眼を遣った。午後五時半。役場の人はもう仕事に入っている。交代まで余裕はあるだろう。時間の計算はどうやら、あずさのほうがはやかったようだ。思案顔を数秒間で切り上げたアリスは後輩に向かい、同行することについての承諾を表情に表した。
「なんていうか、お騒がせしてすいません」
 障子の張られた引き戸を引きながら、あずさはひとまず従兄の無礼について頭を下げておくことにした。
 縁側に出るとすぐに、鳥居の脇に立つ件の青年の姿が目に入った。こちらの気苦労など何も知らない相手は二人分の姿を見つけるとすぐに、手招きをしてきた。無視して、玄関に急ぐ。
「あ、そうだあずささん」
 スニーカーをひっかけようとして、アリスがあずさを引き止める。
「はい?」
「これ。使ってください」
 苛立ちに声を尖らせて立ち止まると、一歩進み出たアリスは下駄箱の引き戸を開く。
 差し出されたのは、丸みを帯びたラインの、木目も鮮やかな一足の下駄。
「……なるほど」
 納得。たしかに浴衣の足元がスニーカー履きでは、格好がつかない。スニーカーに伸ばしかけた足を、あずさはひっこめた。アリスが置いた下駄が、からんと小気味よい音を床に鳴らした。
 
 *
 
 小型タクシーの後部座席は、三人分の体積を押し込められて少々窮屈だった。右端にアリス、真ん中にあずさ。そして二人の背中を押すようにして最後に乗り込んだ守が、左端に陣取る。
 問答無用。色々言ってやろうと思っていた出鼻を、タクシーに放りこまれて挫かれた形になった。
 車は、海沿いの曲がりくねった道を走っていた。島の中心部や港とは反対の、記憶する限り民家以外大した施設もなく、こちら側にはなにもないと思って特に足を運んだこともない方向へ。守の手にはなにやら色々と書き殴られたメモ紙が一枚。それを破りとったと思しきメモ帳とリングの間に差し込んだボールペンも、手に持ったままだ。
「どこにいくの、マモルくん」
 たっぷり、十五分以上は走ってから守にあずさは尋ねた。どこに向かおうとしているのか行き先がわからない。しかもあずさもアリスも、こんな格好で。車に揺られている間に何度、この道程の行き着く先の手がかりを求めて標識や、周囲の景色を二人してきょろきょろ見回したことだろう。
「行けばわかるよ」
 時計とにらめっこをしながら、守は答える。こちらを、見ようとさえもしない。全然それでは答えになっていないという自覚はあるのだろうか。
 日が、少しずつ傾き始めていた。けれど真夏のこの時期だ、まだまだ日没まで時間はある。徐々に空の青さが白さを帯び、もうしばらくすればその白がオレンジに変わっていくことだろう。三人を乗せたタクシーは、ガードレールに守られた海岸線をひた走る。海の色は薄い青が遠くに水平線をつくり、積み重なるテトラポットに打ち寄せる波は白とグレーが混ざり合う。
 それでもやっぱり、蒼はどこにもない。ありきたりな、くすんだ青色の水面が視界の中には続くばかりだ。
「あ、そこ左折でお願いします」
 守の指示を受けてドライバーがハンドルを切ると、色は青から緑へ。海岸線から木々の生えるやや細い道へと車は入っていく。
 展望台、と表記された看板が立っている駐車場にタクシーは止まり、守はここでいいと告げ料金を払う。相変わらず、事情が飲み込めない。戸惑い、顔を見合わせ。守に促され、あずさとアリスも彼に続き車を降りた。
「いい加減、説明してよ」
 歩き出す守を、小走りに追いかける。緩やかな坂道を、彼は上へ上へとのぼっていく。進むにつれて風が強まる。アリスの長い髪が大きくはためき、あずさの着ている浴衣の裾も風に攫われ、煽られる。
 のぼった先に、更に階段。一段の高さは低くとも、またその一段は広く一歩では縦断しきれない。のぼりきって、二つの道が分かれる。展望台へ更に続く道と、降りていく道。
 こんなところがあったのかと、軽い驚きを覚えさせられる。いやいや、それも当然か。展望台なんて露骨に観光客向けとしか思えない施設、地元住民が聞いたところで「ふうん」といったリアクション以外、とりようがないもの。
 てっきり、このまま上を目指すものだと思っていた。けれど守は下りの道を選び前へと歩を進めていく。
「ねえってば」
 もうここでも、アリスのことを守が幽霊と間違えた墓地と同じくらいの高度はある。海を臨む展望台が上にある開けた場所のためか、空が近い。舞う鳶たちが、手を伸ばせば届きそうなところにいる。鳴き声が、羽音とともに鮮明に耳を打った。きっと展望台までのぼっていけばもっと間近に野生の鳥たちを感じることもできるだろう。
 だが三人は、それらさえも後に残し下っていく。緑の中をただ、それ以上の言葉を交わすこともなく抜けていく。
 下った先を、守が曲がった。何を告げるでもなく、一心不乱に。下駄と草履の和服二人から、つかず離れず。
 足元からふとざらりとした感触が伝わり、あずさは下を見る。
 木の葉しか落ちていなかったはずの地面が、いつしかマーブル模様に白く染まっている。足の裏で転がる目の細かい白い砂が、混ざりきらないコーヒーとミルクのように土色を半分以上埋めている。
「あっ」
 一歩先に立ったアリスの声が、短く驚きを表現した。気がつくと視界の上半分から途切れていた緑に顔を上げたあずさもまた、すぐに彼女の驚きの意味を知る。
 細くなりつつあった道が、いつのまにか広く開けていた。
 その先に、目の眩むような蒼があった。
 青ではなく、あの日見たものとまったく同じ、蒼が。
「どうして」
「父さんが、教えてくれたんだ」
 守が、そう言った。
 
 *
 
「父さん、って。マモルくん、電話したの?」
 そこにある蒼は太陽の色が仄かに混じりはじめた以外、十数年前のそれとまったく同じ。夕日がすべてを暖色に染めてしまう前に間に合って、よかったと思う。一分でも、二分でも。蒼はたしかに三人の目の前にある。
「馬鹿みたいだなって思った。……我ながら」
 訊いたあずさの目は、海の蒼さにずっと注がれていた。守もひたすらに、端々へ沈み始めた太陽の赤みを差し始めたそのブルーを見続け応えた。
 三人が立っているのは、小さな入り江のようになった砂浜で。ごみひとつ、落ちてはいない。
 拘りが目を曇らせていたとか、つまりはそういうことなんだと思う。拘っていたのは自分ばかりで、話をすること自体はなんということもなかったのに。
 ひとりよがりな拘りが、自分で自分の選択肢を狭めてしまっていたのだ。
「ここさ、あの展望台が整備される前までは家や神社のあたりから裏道がまっすぐ伸びてたらしくて。父さんたちの時代からずっと、近所の子供たちのとっておきの場所だったんだってさ」
 当たり前と、特別。二つの一見矛盾する言葉が同居する、島の子供たちにとってのかつての秘密の場所。知っていて、当然。ちょっとしたその距離を往復するのは心構えを固めた上での、一種の冒険。この場所にこの色をした海は常に鎮座しながら、島の子供たちを育み幼さの殻の向こう側へと送り出していった。
 こんなにも簡単なことだったのだ。訊ねることも、見つけることも、全部。こちらから動けばなにもかも、なんでもないことだった。それを縛っていたのは皆、相手の心に存在しない自分自身の負い目を気にする、些細な拘りがあったから。
「拘ってたのは自分ばっかりで。父さんも母さんも全然そんなこと、気にしてやいなかった。最初から、こうしてればよかったんだなって。自分の間抜けっぷりに少し……いや、かなり呆れたよ」
 海は優樹や遠い昔この場所を訪れた故人たちの在りし日と同じように蒼い。それは目の前にあるそれが、過去のものと同一であるということ。
 あの日、記憶を頼りに父は三人をこの場所に連れてきてくれた。島の環境整備の代償として、子供の足だけでは容易に行くことの出来なくなってしまった、自身の思い出の場所へと。
 ごめんと最初に切り出した守に、謝られる理由がわからないと返した父はその日、そのとき辿った道筋をひとつひとつ思い出しながら、メモをとる守の手を待ちながらゆっくりと、かつて自分が三人の子供たちを運んだ場所へと行き着く道を電話機越しの声によって伝えていった。
 そこにはただ子の願いを聞く親がいて。話してしまえばわだかまりなど、どこにもなかったのだ。馬鹿を通り越して──愚かしい。
 守はメモ帳の間から、挟んでいたものを取り出しそっとアリスへと差し出す。
「これを見て、踏み出そうと思った。動き出そうと思ったんだ」
 アリスは、受け取った。それは一通の手紙。彼女から守へと託された日記のうちに挿入されていた、遠い過去に日記の執筆者へと届けられた古い便箋。
 帰ったら、また海に三人で行こう。そんな希望に満ちた言葉の並ぶ、戻ってくることがごく当たり前のことだと思っていた男がささやかな願いとともに自身の想い人と弟に宛てて綴った文章だ。
 話には聞いていたこの手紙と叔母の言葉とが、守を動かした。叔母の告白は守の指先を携帯電話のボタンに向かわせる最初の一手となり。当初見落としていた、日記の隙間から零れ落ちたこの手紙が守の口から正直な、拘りのない自然体としての言葉を両親に対して引き出す決め手となった。
 些細なことへのしがらみが人を一番苦しめて動けなくするなら。些細なことならばきっと自分から動き出せばうまくいくはずだ。開き直りに近い感覚ではあったのかもしれないけれど、結果的にそれは事態を好転させてくれた。
「ここがきっと、アリスのお祖母さんたちが一緒に見た海だ」
 手紙が皺になるのも忘れて、アリスはその紙片を握り締めた。ごくり、と口の中の水分を飲み込む音が波の音に紛れた。
 彼女が俯き。瞑目したのを見届けて、守は視線をあずさへと移す。
「そして、あずさ。ここが優樹と一緒に俺たちが、見た海なんだ」
 二つの『三人』が、それぞれの時代にそれぞれの面子で目を奪われた海。その蒼みは夕焼けの茜色の侵食を受け、どんどんその色彩を変えていく。
 見ている『三人』も今は違う。守と、あずさと。アリスの三人。二つの『三人』に、それぞれ関わった「三人」。
 今ここで海の蒼さを見つめている三人は、昔とも過去とも違う。今現在の時を生きている、三人だ。
 あずさは、左の手首をリストバンドの上からじっと握り締めていた。さくり、さくりと。砂浜に足跡を残し、波打ち際へと歩いていく。
 裸足になって、蒼から赤に変わりつつある水を彼女は踏みしめた。浴衣の裾を持ち上げて、しゃがみこんで。海水を掬っては、流す。
「叔母さんな、あずさのこと全部、知ってたよ」
「……」
「些細なことに縛られて、動けなくって。叔母さんも苦しんでる」
 その無言の背中へと、守は言葉を投げる。一方的に。聞いているのかいないのかもわからなくたって、かまわなかった。
「あずさが苦しんでたことを全部知った上で。いろんなしがらみで動けなくて。動けない自分に、後悔してる。あずさが苦しんでることに苦しんで、色々諦めかかってる」
 ちゃぷちゃぷと、波があずさの足元に当たっていた。太陽が正面から照り付けて、三人の顔はともに影になっている。自分が他者から見てどういう顔をしているかもわからないのに、あずさの今の表情なんてわかりっこない。
 掬った海水をあずさは投げた。遠くへ、できるだけ遠くへ。大きく、振りかぶって。太陽になんて届くわけがない。定型をもたない水は彼女の掌から離れると同時に散って、太陽の照り返しを瞬かせながら海水面へと落ちていく。
「あずさから、もう一度動いてみなよ。叔母さんが些細なしがらみに縛られて動けないなら、それも手だと思う」
 もう殆ど、海はオレンジ色だった。太陽はあずさの投げた水に打たれることもなくただ悠然と、水平線の向こうに逃げていこうとしている。
 だが、海は逃げない。海は、いつだってここにある。蒼から赤に変わろうと、赤から黒に変わっていこうとも。逃げる太陽も、逃げない海も。その寿命は守よりアリスよりあずさより、どんな人間よりずっとずっと永い。
「きっと叔母さんだって、優樹や叔父さんの傍にいたいと、繋がりが欲しいと、そう思ってる」
 彼女は一体、どんなことをこの海に考えているのだろう。自分が彼女に向けた言葉は、これで正しかったのだろうか。己の知りえないことについて知りえないなりに守は考え、あずさが返してくるであろう反応を、じっと待つ。
 アリスが、傍らに寄ってきていた。
「……帰ろっか」
 振り向かずに、あずさは言った。元気がないわけでもない。かといって気軽な感じでもない声で、ぽつりと。
「いつでも、ここには来れるもんね」
 ここ。来れる。二つの単語は無生物に対して向けられたものでありながらおそらく、それだけのものではない。別の言葉に言い換えるならきっと、あの子。会える。そんな二つの単語で代打の役目を果たすことが出来る。
 そう、また行動に移せばいい。今度はあずさが望んだとき、望んだ相手とともに。それはなにも難しいことなどではない。守が踏み出したのと同様に、その動作自体はひどく簡単で、いつだってやろうと思えばできることなのだから。
 失望や苦痛からの言葉ではなく、納得ゆえの血の通った言葉が、今あずさの口から漏れ出てきたように守には思えた。たとえば冷たかったマグカップのミルクが人肌に温まったかのように、その声には一片の体温が含まれていることを感じさせた。
 ごめんなさい、先輩。ちょっと浴衣の裾、濡らしちゃいました。謝罪へと結びつき続くその言葉は、アリスのほうに向けられていた。
 ──かまわないです。それに、裾だけじゃなくたって。好きなようにしてくれて、いいんですよ?
 穏やかではあるけれど力の端々に込められたあずさのそれとは対照的に、頭を振った静かなアリスの声はどこまでもやさしく発せられた。
 ──濡れているのは、足だけじゃないでしょう?
 ぴくり、と従妹の背中が反応したのは見間違いではない。それから肩が、少しだけ震えた。
 彼女が右手を大きく振ったのは、その直後だ。浴衣の袖が空を切り、オレンジ色の日の下に躍って。その一回だけで、また右腕は下りた。
 それは、濡れた場所を拭うために。海水とは違う、塩辛いものが流れ伝うそこがどこであるかは、後ろ側から見守っていても一目瞭然に、二人にはわかった。
「さ。いこっ」
 下駄を拾って、あずさは振り返った。いつも通りの彼女の顔が、沈むことなく笑ってそこにはあった。
 全身が──白い浴衣が、素肌の露出している顔や手足が、太陽の光にオレンジの暖色を受けて染まっている。
「海霊祭で先輩だって忙しいんだから。あんまし引き回しちゃ悪いもの」
 拾い上げた左右の下駄を右手と左手に片足分を一足ずつ持って揺らし。悪びれない口調とともに彼女はこちらに戻ってくる。
 蒼の美しかった海は、取って代わったオレンジも同じく、眩しいほどにきらきらと輝いて彼女を背中から送り出す。
 潤んだ彼女の目は、オレンジ色とはまた違った色彩に、ほんの少しだけ強い紅みを帯びていた。ほんのり血のめぐった顔も、それと同様にやっぱり少しだけ紅かった。
 携帯電話をとりだし、登録しておいたタクシー会社の電話番号をプッシュしようとした守の手を彼女は抑える。いや。彼女たちが、抑えていた。
 はい、ストップ。あずさとアリスの二人分の掌が守の掌を握り、制していた。三つの手が、重なっていた。
「あずさ? アリス?」
 ふるふる、と息もぴったりに、いたずらっこのような微笑で首を振る二人。指先が守の意思を無視して、半強制的に携帯電話を閉じる。
 今はこれは必要ないから、と二人の目が語っている。
「途中まででいいからさ、少し歩いて帰ろうよ」
「はっ?」
「私も。すぐにタクシーに乗ってしまうよりは、少し歩いて色々考えたい気分です」
 いや、でも。今、祭で忙しいって言ったじゃないか。神社の仕事、あるんだろう。──なんて反論が言葉になるよりも、左右から両方の手を二人の少女に強く引かれるほうが早かった。
 ただ双方向からの引っ張る力が二人それぞれにまったくもってばらばらで、おまけに加減もできていなくって。もつれた足を立て直すことができずに、守は白い砂浜へと盛大に顔面から突っ込んだ。失笑と、心配。二人の少女のリアクションは性格の差をよく表して違っていた。
「まったく。そういう情緒がわかってないと、いつまで経っても彼女なんてできないよ、マモルくん」
 口の中に入ってきた目の細かい砂は、温かくて塩辛かった。
 熱いくらいに温かくて、そんな言葉で笑った誰かさんが零した涙のように、しょっぱい味がした。
 ──そのほうが、安心できてうれしいけど。従妹の漏らしたその一言を、塩辛さに気をとられ守は聞き逃していた。
「またくるから、優樹」
 彼女には──水平線に優樹の姿が、見えていたのだろうか。
 
 *
 
 結局、殆どひと夏すべてを、守は青海島にて過ごすことになった。
 帰省するのが嫌だとか、そういう感情が残っていたわけではなく、ただ純粋に従妹やアリスたちとの間に生まれていく日々が十二分に充実していたから。
 あの蒼い海を見に行ったのも、一度や二度ではない。時には、バスを使い。一番年上のお兄ちゃんなんだから当然出してくれるよね、とあまりにも堂々とたかってくるあずさを断りきれず、守の負担でタクシーを呼んでひとっ走り向かったり。三人で折を見ては、幾度かあの場所を訪れていた。
「は? うちの大学を受ける?」
 尤も、夏といっても今は半ば以上初秋にさしかかろうとしている九月の上旬。残暑は厳しいものの、既に授業の始まっている高校生のあずさたちの服装は制服だ。
 島の名物やら、叔母から持たされた土産やら。両手へいっぱいに抱えた守は、フェリーの発着場までアリスとともに見送りに訪れた従妹に対し、思わず声をあげた。
「なにさー、受験は一応やっといたほうがいいって言ったの、マモルくんじゃない」
「いや……そりゃあ、言ったけどさあ」
「むー。人がやる気になってるところに水を差すのって、よくないと思いまーす」
 ねー、先輩。一列になってベンチに座った右端のアリスは、そうやってオーバーアクションにあずさから振られて、困惑気味に苦笑を浮かべた。
 まあ、受験をしていない私にどうこう言えることじゃないけれど、なんて頬を掻きながら。
「大丈夫か? うちの大学、わりと偏差値高かった覚えが」
「……それ、『自分はよくできる子です』って自慢してる?」
「そうじゃなくて。あー、なんつーか、ほら」
 あの、海霊祭の夜。帰って夜遅くまで話す従妹と叔母の姿を守は見て知っていた。また、その結果あずさが今までひたすらに固辞していた大学受験を、する方向に傾いたということも。
 ──優樹の居場所が、私以外にもあることがわかったから。それに外に出て行ったらひょっとするといつか、優樹やお父さんのお墓参りをすることのできる機会もあるかもしれない。だから、いく。
 悲しみとかそういうものではない、意義のある交差ゆえの、そのエネルギー源としての涙で両目を紅く泣き腫らした従妹は、その日そういって守へと微笑んでいた。
 だがかといって自分と同じ大学を受けるつもりだというのは守にとって、寝耳に水のことで。うろたえるのも無理なからぬことであり、自信満々な様子で告げた従妹に一抹の不安を覚えるのも仕方のないことであった。
「とにかく。緒方あずさ、受験戦争へと出馬表明させていただきまーす」
 ちなみに同様の驚愕を、彼女の変節を目の当たりにした担任教師も本人との二社面談の際に既に受けているのだが、そこについては流石に守にとって与り知らぬこと。
「あ、そうそう。言っとくけどアリス先輩のとこでのバイトはこれまで通りきっちり続けていくからね」
「ありがとう。助かるわ、あずさ」
 また、そんなあずさにはもうひとつの変化があった。あの日以来、時折ではあるけれどアリスの神社へと足を運ぶようになり──あくまで人手が必要なときに限って、だが──彼女一人で切り盛りしていた神社の仕事を手伝っている。
 いつの間にかあたしたちより先輩と仲良くなったよね、というのはその話を最初に聞いた、アリスの美術部後輩一同を代表しての若葉の弁。
 その意味ではあずさだけの変化ではない。あずさとアリス、ふたりにとっての変化ともいえる。
 守としてもあずさとアリスのコンビがここまで定着するというのは少々意外ではあったけれど、同時になんとなく見ていて安心できるものがある。さしあたって神社の仕事方面似おいてその本領が発揮されることになるのは秋の彼岸と、大晦日から正月にかけての初詣といったところか。
 次は、いつ遊びに来るの。あずさに訊かれてみて、守は首を傾げた。
 さあ。どうかな。いつになるだろう。正月は実家に帰るだろうし、春か、夏か。最短なら秋の学園祭休みを利用する手もあるけれど。正直なところ、今はまだまたいつここにやってくるかは決めていない。
 でも、来る。そう遠くないうちに絶対に。その意識はある。
「ひとまずは実家に着いてから考えるさ」
 また見たくなったら、この島に来るだろう。それだけは、確かだ。
 蒼い海や、従妹たちの顔や。思い出や。そうしたくなるだけのいろんなものがこの島にはあるのだから。
 灰色と深緑の海の向こうで、フェリーの警笛がぼうっと鈍い噴射音を鳴らした。
 まもなく、乗船時刻だ。疎らな待合の客たちが荷物を手にしたり、最後の土産を売店に買いに走ったり、俄かに慌しくなる。
「ほんじゃま、行くわ」
 守も、ボストンバッグを肩にかけてベンチから腰を浮かせた。
 年季の入った、くすんだ白い船体が窓の外に覗いた。
 船から降りたあとのルートも、既に全部頭の中に入っている。久しぶりの実家だ。不安や進まない気分は、もうない。
 いつもは自由席の新幹線の切符も、少しばかり奮発して指定席の券を往復で既に昨日、押さえていた。帰省シーズンはとうの昔に越えていたから、平日の午後の便ともなればよりどりみどりに選ぶことができた。
 船が接岸して完全に停止するまで、もう少しかかる。だからあずさもアリスも、守の後ろについてきた。
 タラップが降りて、乗船がはじまって。そこに守が足を載せるまで。それまではまだしばらく、三人の時間は続く。
 あと少し、ほんの少し。蒼い海から繋がった、蒼くない海を前にして。
 
 
(了)
 
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