保管庫を更新しました。

 明日は他の保管庫も更新予定ー。
 
 んでもって続きを読むから一次創作『千夜一夜』二回目。一回目はこちら
 
↓↓↓↓
 
 
 
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千夜一夜
 
第二回
 
 
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「……で。結局そのコロって猫、どうしたわけ?」
 遠目からヒワが言葉を投げた背中は、黙々と作業を続けている。
 もくもくと立ち昇る、独特の香りの混じりあった湯気を全身に浴びながら。
 青年は、一昨日の豆──ダイズを、蒸している。あるいは多分、煮ている。ちょいちょい、火の大きさを覗き込んで、様子を見つつ。換気扇を最大稼動にしても厨房に満ちている独特の匂いは、そこから発せられるものだ。
 青年は顔を上げると、ヒワに首を曲げて振り返る。
 ──それをわざわざ言ってしまったら、つまらないだろう? と。尤もなことを、青年はヒワへと言う。
「ああ、そう」
 それきりまた、前を向いてしまう青年にヒワは、溜息ひとつ。
「んじゃさ。何つくってんの? 『ダイズ』だっけ、その豆」
 応えは期待するだけ無駄だと、そうやって話題を変える。返答は……だんまり、か。
 しかし肩を竦め、諦めてヒワが厨房を出て行こうとしたそのときになって、ようやくに青年は口を開く。
「家の仕事が、大嫌いだった」
 ──と。どこか噛み合ってはいないように思える台詞が、返される。
「……はい?」
「昔。家業の、親父のやってる仕事がとにかく、嫌で嫌で仕方がなかったんだ」
 それは、青年の過去語り。ヒワが要求したわけでもなく、彼の口からその声は紡がれていく。
「朝も、早いうち。それこそ、まだ暗い頃から親父は起き出して。そしてこんな風に、大豆に丹精してた」
 尤も、最初の最初までつきつめていくと、まず最初にあったのは「一体なにをやってるんだろう」っていう知るところからの好奇心で。そのあとには憧れみたいなものを持ってたはずなんだけどね。……青年は言い、笑う。いや、哂う。
 軽く、気のない感じに。その素振りは、自嘲している。
「見ている間は、すごく格好よく見えたんだけどね」
 ちょうどテレビで、豆腐屋を題材にしたドラマがうけていた時勢だったし。
 テレビ。ドラマ。どちらもダイズ同様、ヒワにとっては馴染みのない単語を、彼は吐き徒然に、語り続ける。
 でも見るのとやるのとじゃ全然違って、と彼は前置きをして。
「だって、朝はまだ夜じゃないかってくらいに早いわけだし。使う水も、凍ってるみたいに冷たくってさ。手伝いだ、見習いだっていってもひとつひとつ、ちょっとでも間違いがあると親父は怒鳴るし。妹がひとりいたけど、そっちには親父も母さんも、なにも言わなくってさ」
 ふうん、妹がいたんだ。……それはいいとして、一応、上司なんだけどな、あたし。思うヒワに対し彼は、社長と社員としてではなく、年上と年下という関係性できっと、言葉を紡いでいる。
 はじめてじゃあないだろうか。この家にやってきてこんなに長く、敬語でない日常的な口調でヒワに対し話をする青年は。
「だから」
 ──だから?
「だから、きみはすごいよ。僕と二つしか違わないのに、聞けばもう五年も前から家業を継いで、立派に社長をやっている」
 褒められて……いるのだろう。多分。あるいは、羨んでくれているのかもしれない。青年は青年なりに、自分自身の過去とヒワとを重ね合わせながら。惜しむらくはヒワにとって、彼の嫌だったその家業がどういったものか、てんで想像の範疇にないぼんやりとしたものであったことだろうか。
 タツの家の、お父さんのやっていた仕事って、一体。
「僕は、逃げ出したからね」
 また、そうやって哂う。
「というより、逃げたかった。家を継ぐなんて、まっぴらごめんだったから」
「ええ、っと」
 言葉は断片的だけれど、直接的でもあって。ヒワに対する賞賛と、彼自身への自嘲とがまるきり、隠されない。
 ただ。おかげでこちらは照れるわけにも、同情を見せるにしても情報が少なすぎてどっちつかず、すっきりしない。
「──さて」
 なんとなく、言葉を見つけられずにいると、青年は時計を見上げた。そして時間を計っていたのであろう、ダイズを火から降ろし、蒸しているその蓋を開ける。
豆を、蒸すか煮るかし終わったのだろう。青年の作業に何気なく、豆がどういう状態になっているか覗き込むように、ヒワも近付き彼の背中越しに鍋へと視線を落とす。
「えっ?」
 そしてしかし、そこに「豆」はなかった。
 代わりに鍋へと満ちているのは、濃厚な香りを漂わせる乳白色の液体が一面。
「ほんとうは、すごく難しい作業なんだよ。……自然にできるってことは結局、教えられたことが染みついてた。僕も父さんの子だったってことかな」
 すぐ脇に用意していた木べらで、滑らかなその液体を彼は静かにかき混ぜた。
「……豆、は?」
 ぽかんと、ヒワはただ聞き返すばかり。一方、青年が抱えたのは白い布の重ねられた、底の深いボウル。
「これが、豆さ」
 今度は青年は、「笑った」。いたずらっぽい微笑が、顔に表れていた。
「まるで牛乳みたいだろう? でもこれ、豆なんだよ」
 想像もしなかったかい? 青年の言葉に、こくこくとヒワは首を上下する。てっきり、豆をそのまま料理するものだとばかり思っていた。
 けれど、そこにあるのは。
「でも、スープなんて」
 豆のスープを、弁当と一緒に売ろうというのか。液体からそう、ヒワは考えを直結させる。そしてそれが新商品として難しいと断じる。持ち運びとか、販売の方法とか、色々な点から。
 うまくいくはずない、と思った。まだ味すら知らないそれだけれども、そういった様々な要素を覆せるわけがない、と。
「スープじゃないよ」
「え?」
 そんなヒワを尻目に、青年は手を伸ばす。
 机上に置いたボウルの更に向こう。置かれている、例の小瓶へ。
「想像しないことや、予想に反することって。けっこう起こるものだよ」
 透明な中身を、青年は軽く振ってみせた。
 ──さあ。今日も子供たちがくる。それまでに済ませてしまおう。そう言って。

 コンクリートのブロックで積み上げられたその塀は、よく見ると結構な年代を感じさせる古ぼけた汚れや、皹がところどころに刻まれていた。
 遠目ではわからないが──こうして近付くと、意外にみすぼらしい。
 なんだ、たいしたことないな。コロは思う。これなら、どうってことない。
 前に、フィガロが来てから三日。あれから彼は姿を見せてはいない。このおんぼろ塀の向こうに、消えたっきりだ。
 ひとまず、あれから。何度か試してみて、それを飛び越すのは自分には不可能だということがコロにはよくわかっていた。
 でも。──なにも塀なんて、飛び越す必要はないわ。隠しきれぬしたり顔で、コロは思う。上がいけないなら、他の道を探せばいい。
「そうよ。その通りだわ」
 まさしく、自画自賛だった。自分自身の口から発せられたその賞賛に、他ならぬコロただひとりが満足している。
 上以外のルートを探すのはいい。けれどそう思っただけでまだ、実際に行動に移してすらいないというのに。彼女はそれを口にするだけで有頂天になっていた。
 猫が、庭に一匹。外界との間には高く固いコンクリートのブロック塀が一枚。その構図は何ら、変わっていないにも関わらず。
「さてと」
 ずしりと重いその身体の、肉付きのよすぎる腰をコロはゆっくりと持ち上げる。
 さあ、出てやろうじゃないか。
 出ていって、フィガロの鼻を明かしてやるのだ。軽業師のような芸当、できなくったってこのコロ様には外に出るくらい、容易いのだから。
 やれない、やれなかった。そんなことはない。やろうと思わず、やらなかっただけだ。
 軽やかな足取りで──と、彼女は思っている──、のそのそと彼女は塀のすぐ側へと更に近く寄る。
 あまり丁寧な手入れとは言いがたい庭の、雑草生い茂る塀の際。つまりブロック塀の根元が、名も知らぬ草々の中に確認できるようになる。
あった、あった。──やはりひびわれて、古めかしいそれにコロはほくそえんだ。
「これなら」
 頷きを、ひとつ。
「これなら、どこかに私が通り抜けられるくらいの穴、ひとつふたつ空いていたっておかしくはないわ。さあ、待ってらっしゃい」
 今に、見つけてあげるから。
 塀に沿って、コロは歩く。途中、ダンゴ虫やカナヘビを見つけ追い立てたり、何処かから(飼い主の言葉で言うところの『おとなり』というやつなのだろう)漂ってくる焼き魚の匂いに意識を浮気させながらも、マイペースに少しずつ。
 その歩みは猫であっても牛歩だった。しかしそれでもコロにとっては多少、息の上がる運動、有酸素運動ではあったのだけれど。普通の猫の何倍かの時間をかけて、ようやく半分。もう半分、コロの住まいを囲う塀の全長は残っている。
 そしてそこに、コロの探し求めているものはあった。
「ここね」
 ちょうどおあつらえむきに、ぽっかりと口を空けている、穴。
 老朽化したコンクリートの一箇所に、ひっそりと広がっている、穴。
 つまり、ブロック塀の破損箇所。雑草の鬱蒼と茂っているその奥に、それはコロを待ち受けていた。……ほら、見たことか!
「ざまあみなさい、フィガロ
 ここから出ていって。あなたのほえ面を拝んであげるんだから。想像から、一層にコロは得意になる。
 塀の穴には、雑草があちこち生していて。爪や歯を使ってひきちぎり、くいちぎる。
 いつも手入れ万全の毛や顔が土で汚れるのはあまり気持ちのいいものではなかったが、大事の前の小事として今のコロは割り切れた。
 もうすぐ。もうすぐなのだ。ぜひぜひ外の世界というやつがどれほどのものなのか、見てやろうじゃないか。
 蜘蛛の巣も、振り払う。おっかなびっくり飛び起きたその巣の主である蜘蛛も、いつもならば──つい五分前のコロならば飛びついていただろうが、今は見逃してやる。かまってやるひまなんて、ないのだ。
 穴は狭くて、息苦しい。だから少し掘る。下の地面を。さすれば穴自体がだんだん、広がっていく。コロの息も、あがっていく。体温も、心拍数も。ほんとうにこんな運動、久方ぶりだ。
「さあ」
 これで十分だ、と思った。両方の前脚が泥だらけだけれど、固い土を引っ掻いたおかげで今度の爪とぎの手間が省けた。それでいいと思うことにする。納得できる。
「今、行くわ。フィガロ
 あなたのもとへ。
 状況が状況ならば燃えるように熱い、迸る恋のフレーズであったろうにその言葉は、しかしこの場合においてはロマンチシズムの欠片もない、まったく違うベクトルで雌猫の口から吐き出された。
 掘った穴から、ミミズがちろちろと動いているのが見える。
ええい、邪魔だ。ひっつかんで、投げ捨てる。そしてそこに、勢いよく首から先をねじ込んでいく。
「ん……む」
 コロ自身としては十分だと思ったそのスペースも、思ったより狭くきついものだった。
 うまくいかないな。
 こうか? いや、もっと右に。もう、少し。太った身体を少しずつ穴へと滑らせながら、コロはひたすらに試行錯誤する。
 掘った穴は考えていたよりも浅く、また少々傾斜がつきすぎてしまっていた。
 自己評価と──無論、肉体に対しての──現実の差、というやつである。下を向いたまま、押し込められたかのように遅々として前進は微細にすぎなかった。
 穴への過大評価と、肉体の厚みへの過小評価がそれを引き起こしていた。
「えっ」
 そして、なにか。その瞬間不穏なほどに小気味のいいなにかの「はずみ」が、自分自身と掘った穴との間にすっぽりとはまったのを、コロは感じ取った。
「う、嘘」
 狭くきつかった穴が、むしろ今はほどよい。
 と、いうより。フィットしすぎている。
「まさかっ」
 つまり──動かない。前にも、後ろにも。ぴったりと、コロのお腹と背中とが、穴の直径にはまってしまって。力の限りに踏ん張って、顔を真っ赤にして押しても引いても、微動だにしないのである。
「嘘、嘘っ」
 爪が、土をひっかく。首すら動かせない状況に、コロはパニックへと陥る。
 やめて、嘘。冗談でしょう。伸ばした指の先に固い感触が……おそらくは土の切れ目、外の世界が待っているというのに。もうすぐで、見れるというのに。
「だ……だれか」
 ひとりでは、どうすることもできない。パニックに、コロは声をあげる。
 どうしてこんなことになった。お願いだから、だれか助けて。──果たしてそれをだれが聞くかなどということすら、見えずわからぬままひたすらに。見つけて、助けて欲しいと彼女は思い、求めた。
 彼女の尻尾はあちらこちらに振り乱れ、彼女を穴の中に縫い付けている塀を何度も何度も庭の側で叩き。しかし、そんなもので塀が壊れるわけも、穴が広がるはずもなく。
「だれかぁっ」
 コロは鳴いた。鳴いて、すすり泣いた。ずっとこのままなんて、情けなさすぎる。おいしいものも食べられないし、お昼寝だってこんな寝苦しいところじゃあできっこない。毛繕いも、あちこちしなくちゃいけないっていうのに。
 このまま、飢え死にしてしまう。きっとそれを空の鳥たちは見下ろしながら、次第にこの私がやせ細っていく様を観察日記につけるに違いない。
 今日のあの猫は、お尻がこれだけ細くなっただとか。見えているお尻から、骨が浮き出ているとか。
 もう、おしまいだ。
 フィガロが。フィガロが外の世界を見ろ、なんて言うから。
 そんな言いがかりじみたパニックが、心に渦巻いていた。
「あんた、一体。何をそんなに、泣き喚いてんだい?」
 そしてだからこそはじめは、フィガロがきてくれたのかと思った。あるいは、その幻が幻聴を聞かせているのではないか、と。
「なあ、おい」
 しかし、それは幻聴でもなければ、はっきりとフィガロの発する声色とも違っていた。彼の声はもっと落ち着いているし、もっと品がいい。囀るような、こんな音色でもない。
「うるさくて、寝れないんだが。あんた一体、何してる」
 見えもしないその相手はただ、フィガロではないとだけコロにはわかった。

 一見それは、プリンかゼリーのようだった。けれど、そのどちらでもないということは、ヒワも理解できる。……豆のゼリー? 豆のプリン? まさか、そんなこと。
「こっちが、絹」
「……絹?」
「で、こっちが木綿」
 ダイズであったそれは、白い六面体へとなっていた。それが、ふたつ。
 外見的に滑らかさを認識できる、表面のつるつるしたものと。もう一方、布の跡がくっきりとそこに残された、重みを感じさせるものとひとつずつ。
「──いや、はや」
 ルドルフが、言葉を捜しながらといった風に、溜息のような声を吐き出した。感情的には、ヒワにもそれは十分に理解できる。
「これは、驚いた変身というべきでしょうか」
 いや。実際──そうとしか、言えまい。
 乳白色の白いペースト状に、彼は豆をすりつぶしそれを煮込んでいた。
 そこに、例の液体をおもむろに注いで。
「そんな木の枠、いつの間に用意したのやら」
 まるで、手品のようだった。
 枠の中で、白い豆のペースト液は固まっていた。──いや。あの透明な液体を注いでからほどなくという段階で、既にどろどろになりはじめていたのだ。
 そして青年は、出来上がり皿の上に並んだそれらふたつの白い塊にそっと虫除けの笊をかけ覆い隠す。これでもう、弄る部分はない、とばかりに。
「イティさんが、ね。思ったとおりのものを持ってきてくれたし、注文どおりのものをつくってくれたから」
「あらま、大旦那さまが」
 イティ……つまりその意味するところである祖父の名を出され、ルドルフがおどけたように驚いてみせる。たぶんは、半分くらいは本心から。
 青年からの注文は、例の『ダイズ』と、『ニガリ』と。それだけで終わりというわけではけっしてなく。
その二つに加えて更にこの四角形の立体を形作るための外枠、そこまででようやく、完了。すべてであったということか。
 注文もなんだかんだで多いけれど、それを受けてさして大変そうにするでもなく、しっかり用意してくるほうもしてくるほうだ。
 短く刈り込んだ白髪ひげの祖父の顔を思い浮かべながら、内心でヒワは思う。
「随分とご執心のようにも思われますが……ね? リップお嬢さま」
「ほんと。珍しい」
 従業員を雇うことだって、はじめは乗り気じゃなかったくせに。
 考えていると、そうなのかい、とタツが首を傾げて言う。
「ええ。大旦那さまは基本的に、仕事上以外での人付き合いはされないお方ですから。特に、この十数年はとかく顕著に」
 ──旦那さまと奥方。つまり、リップお嬢さまのご両親が亡くなられて以来。
 ルドルフが言うと、青年は──タツは、ヒワのほうを見て。申し訳ないような、言葉を言いあぐねているような表情をその顔につくる。
「あ、えっと。いいの、つらいことを思い出させたとか、気を回さなくても」
 それが慙愧によるものだということは、すぐにヒワにもわかった。
 だから肩を竦めて、小さく首を横に振る。気遣われるようなことではないから。
 思い出して切なくなるほどに、思い出が濃密ではない。それを憶えていられるほど、両親を喪った当時のヒワは大きな子供ではなかった。
「たしか、おとーさんとおかーさんが死んじゃってからだっけ? ウチの会社をもっと大きくする、業績アップさせていこうっていう方向性をお祖父ちゃんがすっぱりやめちゃったの」
「そうですね。それもやはり、旦那さまの亡くなられたほんのすぐあとだったかと」
 顎に前脚を当てて、考える仕草でルドルフは応じる。
「だから正直、意外というより他にないのですよ。よく通じ合ったわけでもない……言葉は悪いですが、大旦那さまからしてみれば馬の骨といってまったく差し支えないはずのあなたに、それほど様々に用意をするというのが」
「馬の骨、ね」
 タツの苦笑に、「事実でしょう?」と老猫は続ける。
 そういえばお祖父ちゃんが友達のところに出かけたり、誰か親しい人と談笑してる光景なんて見たことないな。言われてみれば、であってもたしかにヒワにも、それは身に憶えのあるものであり。
「実際。あなたの経歴から何から、大旦那さまの面接で採用したという以外、名前しか知らないんですから。私も、リップお嬢さまも」
 よほど、青年に馬の合う部分を見出せるのか。はたまた、もっと他になにか理由があるのか。
 ルドルフにも。無論ヒワにも、その点は推し測ることしかできない。いや──それすら。知っていることと、判断する材料が少なすぎる。
「ま、さしあたって必要な情報とも思えないですし、よしとしましょう。あなたは給金の対価としては十分な働きをしているし、あの小話も近所の子供たちにはなかなかに好評だ。つまりは……有用。そう、『有能である』。会社にとって重要なのはそこですから」
 ね、リップお嬢さま。
 言われどきりとし、ヒワは青年と猫とを見比べながら曖昧に頷く。
「──なんであたしに振るかな、もう」
「だって。社長じゃないですか」
「むう、いつもは社長扱いしてくれないくせして」
「いえいえ。はじめて厨房に立ったときの社長の危なっかしさは、今でも鮮明に憶えていますとも」
 ルドルフが、喉を鳴らす。ああもう、ほんとうに馬鹿にして。
「とにかく、です。大旦那さまの御歳を考えればむしろ、リップお嬢さまのやっている、身の丈にあった今の経営はよかったことかもしれませんね。私の年齢で言うにはいささか人のことは笑えませんが、勝負をかけるには大旦那さまは、歳をとりすぎていますから」
 しかし次にはしみじみと、そう呟くように言う。
 老体と自嘲する彼自身が経験した過ぎ去りし多くの過去を、不意に思い起こしたがごとく、その飄々とした言い回しの中には微熱のような人肌の温度が残されていた。
 鼻白むより、言葉のその体温が鼓膜に到達するほうが早かったから。ヒワは、目を流した老猫が置いた沈黙の間を受け容れた。
 自分よりこの猫は、遥かに年長者なのだから。たまには立ててやるとしよう……という風に心中で呟くのは、些か捻くれた言い訳だろうか?
「──勝負。夢、か」
 そして幾許かの間を尊重した後、ぽつりとタツが漏らした。それは彼もまた、猫の沈黙を暫し、暗黙していたからこそ。
「無論、リップお嬢さまの夢はお嬢さま自身のものです。このまま、今までそうしてきたとおりに小さな弁当屋を続けても。あるいは、勝負に出て拡大方針をとろうとも。仮に廃業したとしても、私も大旦那さまも責めはしませんよ」
 ヒワは応えず代わりに立ち上がり、窓際のタツの側へと寄って、少し暗さの青みを帯びはじめた空を見上げた。
 正直、よくわからない。そりゃまあ、黒字のほうが赤字よりはいい、くらいには思っているけど、さ。思いつつ、今のヒワを「すごい」と評してくれた青年の、側へと。
タツは何か、夢ってある?」
「僕?」
「家の仕事は、嫌だったんだよね。だったら、他に何か、やりたいことあったんじゃない?」
 ちらと彼を見て、また目線は空。二つ、三つとちらほら、その広いキャンバスには飛び交う影が見えている。
 時間と飛び方からして、たぶん鳥じゃあない。そろそろ活動を始める頃合いの、蝙蝠たちだろう。
 それらが時折、重なりひとつの影になる。やがてまた、離れて複数に変わる。果たしてあの蝙蝠たちはじゃれあいコミュニケーションをしているのか、それとも縄張りや獲物をめぐり、争っているのか。
「──そうだな。絵本を、書きたかった」
「絵本? 物書きさん?」
「というか、絵も物語も両方、かな。小さな子供の頃に読んだ絵本を、後生大事に持っててさ」
 すごく、憧れた。家業を継ぐのではなく、そちらになりたいと切に願った。
「絵心、なかったけど。なりたいとは、率直に思っていた」
「ふうん」
 水仕事で少し荒れ気味の右手で、軽く頭を掻いて羞恥を彼は誤魔化す。
 似合わない、と思っているのかもしれない。──しかしなるほど、彼の語るその『夢』がごくしっくりと、子供たちを前に物語を話して聞かせる青年の土台となっていることがヒワには受け容れられた。
 絵と、文字と。それらを尽くしてやさしい話を伝える存在になりたかった。その願望が、夢が彼の口から物語を紡ぎ出し、それを可能とさせているのだ、と。
「で。その豆のプリンはどうするのです? 味を見るにせよ、しまっておくにせよ」
「『豆腐』」
「トウフ?」
「そう。──『豆腐』、っていうんだ」
 ルドルフの言を訂正する彼は、やっぱり不思議な青年のままではあったけれど、しかしそうして見ることで同時に、少し今までヒワが感じていたより人間くささを増していたようにも思えた。
 やりたくなかった家の仕事を、結局この厨房でやり遂げた彼。
 そこに至るまでの間に、少しずつ物語という『夢』を、子供たちの前で実践している彼。
 双方を同居させているタツが、なんだか。
「試食は。イティさんが帰ってきてからでも、いいかな」
 人間くささはつまり同時に、外から感じられる体温でもある。──うん、悪くない。
「それもそうですね──……おや?」
 と。玄関のほうで鍵を回す音が聞こえてきた。ルドルフも。ヒワも。青年も一様に気付き、そちらを向く。
「大旦那さまが、お戻りになられたようです。噂をすれば、というやつですね」
 ほどなく、開閉音。追って、人の気配。
 ヒワ、と呼ぶ声もまた、鼓膜へと訪れる。
「おかえりなさい、お祖父ちゃん」
 最後には、祖父の姿が厨房へと現れる。手にしたいくつかの荷物を、机上へと置いて。
 そして。郵便受けから取ったのだろう、開封済みの手紙がひとつ。
 封筒は、特徴的な深い青をしていた。それを見せるでもなく、広げるでもなく握ったまま、祖父はヒワに言ったのだった。
「出かけるぞ」──と。
 短く、有無を言わさぬ調子で。
 だから、どこに? と訊いたのはヒワでなく、ルドルフだった。彼の丁寧な物腰らしく、無論その言い回しは「どこに?」ではなく、「どちらに?」であったけれど。
 これにもまた、祖父の言葉は短かった。
「葬式だ」
 たった、それだけ。
 
(つづく)
 
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