井伏鱒二を読みつつ。
井伏訳の『ドリトル先生』シリーズで育った人間なんですが、自分。
このところ井伏鱒二の作品を読んでいて、自分の文体ってやっぱこの人の影響が強いんだなあと再認識。句読点の使い方とかコピー品すぎるだろ俺…。
ラノベ書き目指していて、『ラノベとしての』読みやすさと自分の文体とで葛藤がいろいろあったのですが、なんとなく原点に立ち返って吹っ切れた感じ。
自分の文体は自分の文体だ、うん。
さて、まだ保管庫整理できてませんが一次創作『千夜一夜』三回目ー。
二回目はこちら。
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『千夜一夜』
第三回
4/
ただいま、とヒワが言うと、タツはなんだか、ぎこちない表情をしていた。
黒のカチューシャに、黒のフォーマルなワンピース。黒いタイツと、とにかく黒、黒、黒の礼服姿だから、普段ヒワの身につけていない色ということもあってそれも無理もないことだったのかもしれないけれど。
終わったの、と訊かれヒワは頷いた。──ついでを言えば、外だって真っ黒。すっかりもう、月の二つ出ている深夜そのものの時間帯だ。外では虫たちが時折鳴いているし、往来に人通りはない。
「お祖父ちゃんは今夜、あちらに泊まるって。あたしだけ送ってもらっちゃった」
帰ってきたのは、つい先刻。ことりと音をさせて、テーブルにタツが飲み物を出してくれた。ルドルフが、その側へとやってくる。
「仕込みはもう終わっていますよ。あとは朝で十分に間に合うかと」
「そっか、ありがと。二人だけに任せちゃったみたいで何か、悪いね」
あたたかい、少し渋めのお茶。一口すすって、ほうと一息つく。コーヒーでないのは多分、寝るのに差し障りのないようにという配慮からだろう。ルドルフが、タツが。こちらを見ている。
「どうでした……というのも変ですが。どうでした」
「んー」
マグカップを置いて、肩を軽く回す。足も履き慣れないパンプスだったし、自分で思っていたより気疲れもあるのか、こきこきと関節が鳴る。
どうだった、って言われても。
「あたし、お葬式ってはじめてだからねぇ。ああ、こういうものなんだ、としか」
正確には、『明確に記憶している』葬儀が、だ。
おとーさんやおかーさんの時は生憎、まだ小さすぎたから。おぼろげで、記憶なんてまるきりはっきりしない。せいぜい憶えているのは、たくさん人が家に来た、というくらいのことだ。
「送り出すときは賑やかに、というのがこの辺りでのしきたりですからね。随分、たくさん参列者がいたでしょう?」
「うん、みんなで話したり、ご飯摘んだり。挨拶挨拶また挨拶って感じ」
「慣れないと肩が凝るでしょうね、まあ。何事も経験と思うことですよ」
うん、うん。ルドルフは自分で言った言葉に納得するように頷いている。
ヒワはタツと顔を見合わせて、やれやれと肩を竦める。不幸ごとには違いないから、あまり積みたい経験とも言えないが。
「あたしはまだいいけどさ、小さい子たちとかもう、大変よー。半分舟漕いでるような感じで夢うつつに頭下げてる子なんかもいたし、さ」
もう、すっかりおねむって感じで。親御さんも連れてこなくたって、預けてくるとかすればいいのに。
ヒワの言葉に、タツもルドルフも苦笑する。
人を送り出すための行事だというのに、些か身も蓋もなかっただろうか?
礼服の肩に、帰宅時巻いてもらった塩が少し残っているのを見つける。振り払って、再確認。よし、もうついてない。
「──で。誰が亡くなったんだい。いきなり葬式で、お通夜は行かなくてよかったのか」
「へ」
そしてタツは、おかしなことを言った。
だからヒワもルドルフも、おかしな顔をした。きょとん、と。
おかしなことを言っているのに気づいてか──ヒワたちの表情を受けたタツも、やっぱりそれから、おかしな顔になった。
「おつや、って何?」
「あ──……、いや」
タツが、言葉を濁す。そもそも、誰が亡くなったなんていったところで。
「『これから』亡くなるのですよ。葬儀とは、そういう相手を送り出す。そのためのものでしょうに」
失笑交じりにルドルフが指摘するように、まさしくそのとおりだった。
取り引き先の駅長の、息子夫婦。その夫のほうがこれから旅立つ。それを送り出すための葬儀に、ヒワも祖父も呼ばれたのだから。
「事故なんかなら、ともかく。そういう『死後葬』など、そうあるものじゃありませんよ」
そのルドルフの言葉を聞いて、タツは一層困ったように、眉根を顰めて形容のし難い表情をつくる。
「まるで、死期が簡単にわかるみたいだね」──精一杯という風に、そう声を絞り出しながら。
「ますます、何を言っているのですか」
今度は、溜め息交じりだった。
「アレは、どこの家庭にもあるものでしょう」
言ったルドルフが、ダイニングの壁に視線を投げる。
そこには、電灯のスイッチと並んで似通った形状のスイッチが、赤く塗られて存在している。そしてそれは、二つ。
「この国の人々はアレを押すことによって、生涯に幕を引いていくのではないですか」
昔は四つだったそれはもう、二つしかない。
つまり──ヒワと。祖父のぶんとして。
*
相変わらず、何も見えない。
「誰でもいいから、そこにいるのなら助けてよ」
体勢だって苦しいのは、相変わらず。だからコロは助けを求める。
話しかけてきた、その声に対して。それが誰かも、何なのかも定かではないままに、とるものもとりあえずという風に。
「誰でも、じゃないだろ。俺にはチップっつうれっきとした名前があるんだ、失敬な」
──そんなこと、どうでもいい。
「どうでもいいでしょう、ほら早く」
思うのはともかく、口に出してしまうのは猫という遠慮のない動物の性分以上に、偏にコロのコミュニケーション能力の欠如によるところが大きく。
言いながら、もがく。そして心中においては横からの手助けを心待ちにする。
しかし。
「よかあないっての。こちとら爺さんのそのまた爺さんの従兄の妹の兄貴の爺さんの婿養子は、由緒正しいロンドンの生まれのスズメなんだぜ。そう軽く見られちゃあ、助けようと思う気もなくなっちまう」
鼻を鳴らして、その声は憤慨の意を露にする。
スズメ? ──スズメって、あの鳥の?
「何。あなた、スズメだったの?」
「あたりめーだっ。一体スズメ以外の何に見えるってんだ」
見えないってば──思いつつ、密かに愕然とする。
どうしよう。スズメが一羽側にいたところで、そんな非力な囀るだけの連中、なんにもならない。せめて同じ猫かなにかだと期待したのに。
ぎゅうぎゅうに一本道のほら穴に押し込まれた状態で、コロは悲嘆する。
だが、そのスズメはおかまいなしに、コロへの言葉を続ける。
「で。最初の質問に戻るけど、あんた一体何やってんだ。こっから見るとなんだか不思議な姿勢してるけども。おまじないか何かの最中かね?」
おそらく、スズメはそう言って首を傾げているのだろう。
邪気の有無はこの際、どうだっていい。ただそのように言ってのける、そのチップというスズメの遠慮のなさ、無神経さというやつに、無性にコロは腹が立った。
言うに事欠いて、おまじないだなんて。好きでこんなこと、やるものか。自分ではどうしようもないから身動きできずに苦しい体勢を続けているのに。抜け出せるものならとっくに抜け出している。
「そう見えるのなら──きっと、あなたの頭の中はその羽根みたいに軽くて、隙間だらけなんでしょうね」
不機嫌さがどんどんその容量を増していく。
しかしコロに出来る行動はといえばせいぜい、精一杯やってむっとした声で皮肉を返す程度のことしかなくて。
「そう言うお前さんはどうやら、自分の体型と穴の横幅の比較もできないくらいのヘビー級の石頭のようだがね」
鼻で、笑い飛ばされる。
ええい。ほんとうに、腹立たしい。こんな、スズメなんかに馬鹿にされて。
「それもこれも、フィガロがっ」
「フィガロ?」
「そうよ、あいつが──……ああ、もう狭いっ」
腹が立って、その上情けなくなってくる。
なにもかも、ここにはいないあの皮肉屋が悪いと。責任転嫁をしながら、それだけで飽き足ることなく。
「そのフィガロというのが誰かは知らんがね、お前さんは結局そこから出たいのかい?」
「当たり前でしょ、誰が好きでこんなところ」
自分では押そうと引こうと、うんともすんともしないのだ。
抜け出したい、それはもちろんだとも。
大体、はじめに言ったではないか。誰でもいいから、助けてくれ。相手がスズメだとさえ知らなければ尚、繰り返していただろうが。
「まあ通りかかった手前だ、それなら手を貸してやらんでもないが」
「えっ」
期待していたわけではないから、驚く。スズメと聞いた時点でその選択肢は頭から除外していたから。
「でも、あなたスズメなんでしょ」
「ああ、そうだよ。そうだとも。なにか不満かい」
あんなに小さくて非力なやつが一体、何の助けになるというのだろう。
ひょこひょこ跳ね回るように歩いて、パンくずをつついてはカラスやハトに追いかけ回されているようなやつが、コロの身体をこの穴から引っ張り出せるとは思えない。
「そのままだとお前さん、血の巡りが頭だけになって、風船みたいにぼん、となってしまうだろうよ。さすがにそれを見過ごすのは寝覚めが悪いからね、俺も」
「で、でも」
「まあ──予想するだに、今のお前さんはすごく失礼な顔をしてるんだろうがね」
だが、このチップ様を舐めてかかってもらっちゃあ困る。
胸をおそらく張っているだろう、スズメの声が遠慮や品の欠片もない鼻息とともにコロの耳を打つ。
「ここを使うんだよ、ここ」
──どこ?
「ああ、悪い悪い。見えていないんだったな。要するに、力ではなく頭を使え、ということさ」
そしてコロの耳には、スズメのもの特有のとても軽い、ぱさぱさとした羽ばたきの音が入ってくる。……飛び立ったのか? あの、チップとかいうスズメは。
まさか、見捨てて行く気じゃあ。チップの言葉も、もとより彼を当てにしていなかった自分の思考も忘れて、ぽつりと孤独に置いてきぼりにされることを想像し、コロは激しく動揺する。
「ど、どこいくの?」
「心配するな、ほっぽり出して行くわけじゃあない。さっきも言ったがこのままお葬式、じゃ寝覚めが悪い」
スズメは囀り、コロへと言葉を投げ落とした。
「なあに、ちょっと探してくるのさ。幸いこの辺りは舗装されてない道路も多いし、畑もちらほらある。まあ、待っていてくれ」
「さ、探すって何を?」
結局、それきりだった。その対象が何であるかを明らかにせぬまま、コロを残して彼はさっさと行ってしまった。
羽ばたきの音が段々遠ざかっていったから、それは間違いのないこと。気配の喪失も沈黙も、それを告げている。
その静けさを破るように、短く。
ぐう、と鳴ったのは、コロのお腹の虫だった。
*
なるほど、それは不思議な味をしていた。
牛乳のようで。でもやっぱり豆の味があって。柔らかいようで個体のそれは残っていて、けれど歯ごたえは崩れるような食感。
うん、おいしいと思う。
「……まあ、作った本人は上の空みたいですけれども」
口の端に豆腐の白い破片をくっつけたまま、ルドルフが言う。
テーブル上の皿の上には、半分ほどが崩された白い立体がふたつ。モメンと、キヌだったか。二種類が二種類とも、タツの作った豆腐が味見されている。
当の本人は、口をつけぬまま。
ぼんやりと──いや、むしろ一心不乱なのだろうか? 壁に並んだ赤のスイッチを、眺めている。
「不思議な御仁だ。いやはや、まったく」
なにも、珍しいものではないはずなのに。
このグリムの様々な家庭、様々な家々にはしかし絶対に、その一家の人数分、その赤い色のスイッチがあって。
ヒワの父母も、それを押して旅立っていった。だから四つのうち二つはもう、深く押し込まれている。
幾多の先人たちも。過去から現在に至るまで、事故などの例外を除いて。
「──あ。お祖父ちゃん」
どうかしたのかね、と不意に背中越しに、声をかけられる。
祖父の白鬚が、そこにあった。そしてその視線は孫から、ゆっくりと机上の白い物体へ向けられていく。
ヒワの使っていたスプーンを、祖父は手にする。
モメンの豆腐から、ひと掬い。咀嚼して、飲み込んで。
なるほど、という風に祖父は小さく何度か頷く。同じ要領でキヌも口に。やはり、こくこく頷いている。
「不思議な味だよね。あたし、はじめて食べちゃった」
「私もです」
そんな祖父に、ルドルフと二人言葉を投げかける。
二人の一致した見解として、美味い不味い以前に、面白い、はじめての味だといったものが既に存在していた。
わしもだ、と。短く祖父が発声する。
そして祖父は、座したまま壁のスイッチを見つめ続ける青年に歩み寄っていく。
「珍しいかね」──声に、タツが振り向く。
「もうそろそろ、昨夜わしとヒワの呼ばれた葬儀の主も。こいつを押して、旅立っている頃だろうね」
「イティさん」
祖父の指先は、赤いスイッチの、壁に埋まった使用済みの二つをなぞっていた。
それによっていなくなった二人を想起し、その思い出をいとおしむかのように、だ。
押し込まれたふたつを、爪の先で押してみる。二度。三度。無論既にその用途を完遂し終えたそれらは、祖父の皺だらけの指から力を加えられたところで、様相を変えるわけもなく。
「きみがどこから来たのかは、知らないが。ここの葬送の風習は──この世界は。随分と、変わっているのかね?」
「……」
「実際わしも、倅たちを喪ってから多少疑問に思うようになったからね。忌憚なく言ってくれてかまわんよ」
遅れて。やがてタツはこくりと、首を縦に振った。
「そうか」
「──こういう話が、あります」
旧い、旧い。いくつもの国の言葉に翻訳された、旧く長く読み親しまれてきたひとつの、とある船乗りのお話。
「何度も何度も航海に出ては、そのたび様々な事件に出くわした、とある船乗りの……その話の一節です」
「ふむ?」
その旅でも、彼はやはり事件に巻き込まれた。そして九死に一生という状況を潜り抜けやがて──とある国に辿り着いた。
そこで、船乗りは結婚した。
「よくある話じゃないですか。めでたし、めでたし」
ルドルフが、茶化すように言った。けれどタツは頭を振る。そうではないのだと。そこで、終わりではないと。
おや、と肩を竦めたルドルフの一方、彼の口からはそれより先が語られる。
そしてそれは、ルドルフが笑ったのとは違った意味で、ヒワにとってどこかで聞いたような物語で。
「結婚してほどなく、船乗りはその国で得た知己の人をひとり、失います。けれどそうすることではじめて、男は自分の今居る国においての葬送の風習を知った」
そう、それは。それは──……、
(……『夫婦が』)
「それは、夫婦が。どちらか一方でも死した場合には、もう一方も付き添い、ともに葬られることだったんです」
ヒワの脳裏に、イメージが去来する。
憶えている。自分がこの話を、いつかどこかで聞いたことがあるのがわかる。
だから青年の声に先んじて、心中に主語を呟くことが出来た。先頭にやってくるであろうその言葉に対する予想が、できたのだ。
何故も、どうしても。すべてはなにより、自分自身が自分自身に対し疑問として、心に自然発生する。
「そんなおとぎ話の主人公が、直面したような。その主人公の抱いたカルチャーギャップも、きっとこういうものだったのかもしれません」
解答はほどなく、思い起こされる。──思い出す。
「ほう。……聞いたことはあるかね? ルドルフ」
「いいえ、大旦那さま。少なくとも私の知る限り、聞いたことのない物語ですね」
これでも、大旦那さま、旦那さま、リップお嬢さまと三代を育ててきた自負がありますから。子守りとそのための読み聞かせは並み以上といった程度には造詣の深いつもりだったのですけれど。
ほんとうにそのお話は実在するのですか? とルドルフはタツに問う。
タツは猫からの問いに頷いて。この国のものではないと、補足して。
「きっとよくまだ、わかってはいないと思います。僕が知ったのは結局まだ、この国の人たちが死に際してそこにあるスイッチを押すということ。それと押す前に事前に、所謂葬儀というやつを済ませてしまうこと、その二点だけなんですから」
そのように、続ける。
「わかるもなにも、ありませんよ。それが当たり前。それが、このグリムにおいてのしきたりなのですから」
「……先代ご夫婦は、それに従って?」
「ええ。──……大旦那さま、よろしいですか?」
物語についての話はそこまでで、会話の中に流れ消えていく。
青年の口からは質問が発せられ、祖父の頷きに、今度はルドルフの側から青年に対して説明が返されて。
「来るんですよ、押すべきときが。そのための──『招待状』が」
「招待状? どこから?」
「さあ?」
たぶんもう、ヒワの言葉は場にはそぐわないものだった。それが主軸であった瞬間はとうに、流れ過ぎ去ってしまっている。
「──『アラビアン・ナイト』」
「え?」
「あたし、知ってる。それ、シンドバッドのお話でしょ」
さあ、って。タツからルドルフへ投げられた再度の問い返しを、幾分か強引に上から塗り潰して、ヒワは言う。
きょとんとした、一同の目。それらは一様に若干、ヒワの言いたいことを飲み込めておらず。遅れて、それぞれの反応には個性が表れはじめて。
「さっきの話よ。タツのしてくれた、船乗りさんのお話」
祖父は、少しだけ眉と眉の間に皺を刻んでいた。
ルドルフは、相変わらずきょとん。そして小さく、「ほう」とひと言。
「あたしそれ、聞いたことある。千夜一夜物語、っていうんでしょう」
タツが一番、驚いたような。変なことを耳にしたような、そんな表情を隠さず……いや、隠せずヒワへと向けていた。
「おや、リップお嬢さま。いつから童話の学者さんになられたので?」
たぶんそこにあった心情は、ルドルフが冗談めかして言った台詞を、もっと厳密化したものだったに違いない。
きっとタツは、こちらが知らない前提で話していた。
知らない相手にも伝わるように、簡略化して解説を伝えていた。
でも、──知っていた。なぜ? どうして? そう思うのは予想外を衝かれた場合に抱く疑問として、当然のものだろう。
「そんなんじゃないって。小さい頃、保育所の保育士さんが聞かせてくれた話に、なんだか似てたから」
「ふむ」
だったら、その保育士さんが物語のことをよく知る、物語博士だったわけだ。
ルドルフの調子は変わらない。しかしヒワはかつて聞いた物語と、タツのたった今語った話との一致──タツは否定しなかった──という、その現象によってようやく、青年への新たな印象をうっすら感じ始めていた。
「ひょっとしたら、同じ国の出身だったのかもしれないね。タツと」
よくよく見れば、という認識の変化に過ぎないことだけれど。
顔も憶えていない、昔に話をしてくれた保育士の青年と、彼とはどことなく、似ているように今は思えた。
憶えていないくせに似ているとはこれいかに。つまるところ、雰囲気。そう、雰囲気の問題として、だ。全体的な印象とか。気持ちどこか、うっすらと黄色に近い色が差しているように見えなくもない、その肌の色とか。
今見る青年と、かつて見た青年とがヒワの抱くイメージのうちにおいて、どこかで重なっていく。
「どうかな。──というか。それ、もっと詳しく聞きたいな」
タツは戸惑っているように、変な表情をやっぱり崩さずに言った。
「その保育士さん、どんな人だったの」
「いや、どんなって。とりたてて言うほどのことは別に──……」
そう、ちょうどこの家での、タツみたいに。
違うのは仕事が保育士か、調理師かというその差はあったけれども、同じように決まった時間、子供たちに囲まれて、お話をしてくれて。
同じように──……。
「あれ?」
同じように。……どこから来たのかも、わからない。
「どうしました? リップお嬢さま」
まるでタツと、同じに、だ。だからこれは、タツにも言えること。
ヒワの記憶するかぎりにおいて、タツの場合には彼の名乗ったその名前以外を──なにも、知らない。わからない。
あの、保育士の先生。
いくつものお話を聞かせてくれたあの人の名前は、なんといったっけ。
ヒワは、思い出せなかった。ひょっとしたら、はじめから名前そのものを、聞かされていなかったのかもしれない。先生という以外、自分はあの青年のことを呼ぶことがあっただろうか?
「おや」
言い様のない、もやついた記憶の曖昧さをヒワが抱いたその直後、玄関の呼び鈴が、りんごん、と音を立てて家人たちを呼んだ。
そして何かが、郵便受けへと投函される音。
一同が、そちらを向いた。
とん、とん、とん。ルドルフが、扉のほうへ。その玄関へと軽やかに歩んでいく。
「──これは」
角を曲がり、姿を消す。ほどなく聴こえたその声は、軽い驚きの音色でヒワの耳にも届いて。
やがて彼は再び現れる。
その慎ましやかな大きさの封筒を、口に銜え持参して。
「それは?」
銜え運んできたそれを彼はテーブル上に、祖父の前へと降ろす。
そっと静かに、表面に記載された宛名が間違いなく見えるよう、気をつけながら置く。
「大旦那さまに、です」
ゆっくりと目を伏せて、彼は応じた。たしかに天井を向いたその面には、祖父の名を示す綴りが、読み違えようもなく刻まれていた。
「大旦那さまへ。『招待状』です」
それら文字のキャンバスとなっている封筒は、まるで人の命そのものの血流を表すかのように、真っ赤に染め上げられていた。
その色は同時に、二つを沈み込ませ壁に佇む、人の命の終焉を告げるスイッチとまた、同じ深紅でもあった。
動かし難く、スイッチと封筒、それらの持つ色は互いに等しかったのだ。
(つづく)
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夏コミ、よろしくですー