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千夜一夜』 第四回
 
 
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 うんざりしていた。
 いわゆる反抗期とか、あるいは中二病というやつだったのだろう、『あの頃』の自分は、とにかくうんざりしていたのだ。
 毎朝の、夜明け前の起床だとか。
 いちいち口うるさい親父の言い分とか。
 面倒で大変な、豆腐作りだとか家のこと。
 あるいは。
 自分の生活サイクルからして勉強時間なんて人より少ないのはわかりきってるはずなのに、理解しない教師や。
 無遠慮に、ただ事実としての点数で人に順位付けをしてくる定期考査の結果だとか、学校のことも含めて。
 そう、すべて、だ。すべてに、うんざりしていたのだろう。
 だからだ。だから、あの日逃げ出した。家からも、学校からも。家業からも、親からも、なにもかもから。
 そして、足の向くままふらりと駅にやってきた。妹を、連れて。
 また、そして今も同じように。
 しかし、今度は明確な理由とともに。足を運んだ駅に、いる。
 今は別に、うんざりしていない。
 人も、あのときに比べたら随分、少なかったから。苛立ちも、ない。

「よう、待たせたな」
 いつの間にか、泣き疲れて寝てしまったらしい。
 耳元でささやいてきたその声に、コロは自分が眠っていたことを知る。穴の中につっかえたままの苦しい姿勢でも、進退が窮まれば存外に適応して図太いことができるものだ。
 これは……そうだ、あのチップとかいうスズメの声だ。
「生きてるかい?」
 どこからだろう、と首を動かそうとして、できずに自分の状況を思い出す。
「なあ。死んじまったか?」
「生きてるわよ、バカっ」
 スズメの声は先ほどまでと変わらず、能天気であること甚だしい。
 おかげで即座にこちらも、むきになった返事を投げつけ返す。それだけの元気はまだまだどうやらコロ自身、残っているらしかった。
「レディを放っておいて、一体どこ行ってたのよ。この米粒ドロボウでパンくず亡者の貪欲食欲生物」
「お、言うね。レディと自称するわりに、口の悪いことだ。なんだ、まだまだ元気じゃないか。よかった、これならそんなに慌てる必要もなかったかな。安心した」
 実際に急いだり慌てたりしたわけでもあるまいに、よく言う。
「茶化すだけなら、うっちゃっておいてよ。どうせ猫のことなんて、スズメのあんたには関係のないことなんだから」
 あっち、行け。
 もし前足が動かせる状況だったならば、その両方でしっしっ、と追っ払う仕草を向けていたはずだ。まあ──それができるような状態であればもとより、こんなに腹立たしい思いなんてすることもなかったのだけれど。
「まあ、それもそうだがね。でもさっきも言ったとおりこのまま見捨てていくのは寝覚めが悪いし、人間たちだってよく言うだろう。『乗りかかった船』って。これもつまりは、そういうやつだよ」
 チップの口調は、囀るようなそのリズムを崩さない。
 悔しいが、コロに比べて圧倒的に立場も冷静さも、彼のほうが優位に立っているのは間違いのないことだった。
 そして彼は、続ける。──そこにいる誰かを、コロへと紹介する。
「せっかく見つけて、ついてきてもらったんだ。挨拶くらいまず、するといい」
「──え?」
 気配は、ただチップだけのものではない。ついてきてもらったという言葉は、けっして嘘ではない。
彼、ひとりではない。
スズメの、囁くような微細なそれとは違う、のそりとした重い足音が、コロにその存在をまず伝える。その相手が誰かをチップが伝えたのは、そのあとだ。
「紹介しよう。三件となりの畑に住んでいる、モグラのテツさんだ」
 ──モグラ、だって?
「やあ、キミかね。穴にはまって抜けなくなっている、困った猫というのは」
 そりゃあ困っている。困っているとも。しかし……モグラモグラ、とは。
 それは、コロにとって生まれて初めて見る動物。知る相手。飼い主である一家の、リビングで見ているテレビでくらいしか、目にしたことのない存在。
 連れてきて一体、どうするというのか。コロにはそれが皆目、見当もつかない。
「テツさんは二人の娘さんもいる、もういい歳のオッチャンだがね。しかし、腕は確かだよ。ああいや、腕というか、前足というか」
モグラなんか呼んできたって! 一体どうすんのよっ」
「どうって。そりゃ、掘るんだよ」
「んだ、んだ」
 至極、当然の論理。当たり前の帰結。だが言われるまでコロは、ぴんとこずに。──今相槌を打ったのが、「モグラ」か?
「ひょっとしてあんた、モグラがどんな動物かも知らないのかね」
「べ、別に……知ってる、けど……う、も、もちろん」
「知らないんだな」
 コロの中ではただ、農家の畑にいる動物という認識しかなかったから。
 畑にいて、それで作物を食い荒らす。お皿でご飯を食べる私たち猫や犬と違って品のない動物。それだけとは、違うの?
「まあいいさ、そこから抜け出せたら、あとでしっかり見るといい」
 こころゆくまで。穴があくくらいまで、好きにね。溜息交じりに、チップからそう吐かれて。
「簡単にいえばテツさんは、この辺りで一番の穴掘り職人なのさ。ま、大船に乗ったつもりでいなさい」

 ランチボックス・サービスの文字が躍る社名プレートの上には、臨時休業の四文字と、日付とが大きく記された紙が貼り付けられていた。
 明後日から、三日間。この会社はお休み。弁当作りも、配送も。みんな、一時休業である。
 前社長──つまり実質的には対外折衝的な部分をその一手に引き受けていた、実質上のトップであったヒワの祖父、イティの葬儀のために。
 葬儀をして、それから送り出す。スイッチを押す。そのために、だ。
「お疲れさまです、リップお嬢さま。いえ、社長。タツくんも、急にすみませんでしたね。ご苦労様」
 器用に背中の上にお盆を載せて、ルドルフが二人分のお茶を運んできた。迎える側が二人だから、その数。つまり、ヒワとタツと。
 二人とも、格好は多少形式ばった、フォーマルなものだった。そしてちょうど二人して、外から帰ってきたばかりでもある。
「どうでしたか、はじめての対外折衝というのは」
「んー……」
 事務所のソファに、二人して上着だけ脱いで、腰を下ろす。
「なんかもう、気疲れいっぱい。大変、って感じ。お祖父ちゃんって、すごかったんだな、なんて思ったり」
 事務仕事とかはやってても。お飾り社長でしかなかったんだなって、そう思う。
「そんなことはありませんよ。お嬢さまに社長の座を譲ってからは、随分楽になったし、よくやってくれていると常々、大旦那さまは言っておられましたから」
 香りの良い、ハーブのお茶に口をつける。甘みを含んだ苦味が、口いっぱいに広がっていく。
 祖父が、これから他界すること。それに伴い社長業のすべてを今後はヒワが担っていくことについての報告を、取引先である駅の駅長や担当者たちに従業員であるタツを同伴し、済ませてきたところだった。
 葬儀のため数日間、休業します。タツとともに頭を下げたヒワに対しむしろ駅長たちの態度は、しっかり送り出してあげてください、とやさしく肩を叩いてくれるもので正直、ありがたかった。なにも珍しいことじゃないから、その間は他の取引先に発注を増やすから大丈夫だと、大人たちは微笑していた。
「少し、大変になるかもしれませんが。タツくんだっています、リップお嬢さまなら大丈夫ですよ。私が太鼓判を押しますから」
「……うん、ありがと」
 それらと、ルドルフの言葉と。
 肩の荷が、それだけで降りるわけではないけれど。背中を押してくれているのだとは、わかるから。ヒワも応え、頷く。
「ああ、それから。留守中、タツくんを訪ねてきた子供たちには、事情を説明して一旦引き上げてもらいましたよ」
タツを?」
「例の、お話ですよ。続きを楽しみにしているようでしたから、追い返してしまうのは些か心苦しくはありましたが」
 そうか。もう、そんな時間か。
 外はたしかに、すっかり夕日が落ちて薄暗く空の色を変えている。時計を見ればやはり同様に、空の暗さにふさわしいだけの時間を差している。
 楽しみにしてくれていた子供たちには悪いことをしたけれど、時間が時間だ、こればっかりは仕方がない。
「お祖父ちゃんは?」
 だからこの家の面々だけが、今ここにいる。その中で祖父だけが、一堂の集まる事務所に姿を見せていなかった。
「お部屋ですよ。色々と、支度もあるのでしょう。尤もそれは、送り出す我々にもまだまだ残されていることですがね」
「そういうもんか」
「です。そういうものですよ」
 老猫が言って、目を細める。とにかくまあ、今日はお疲れだったでしょう、明日以降に、と。実際、ヒワのほうも実感する疲労感は大きくて、それでいいかと思えてくる。
「──タツくんは、どうでしたか? 駅長さんたちに会うのは、はじめてだったと思いますが」
「え──ああ、うん。正確には、あの駅の構内に入ること自体が、かな」
「ですか。して、ご感想は?」
 ルドルフに話を振られ、言葉を用意していなかったのだろう、タツは頬を掻いた。
 考えているのがわかる素振りで、しばし黙考。それから。
「思ったより、人が少ないんだなって思った……な、うん。駅っていうから、もっと賑やかなものだと」
「そりゃま、小さな駅だしね」
 そう。いくら首都圏とはいえ、規模自体はごくごく小さなものだから。でなければこのシェルダン・ランチボックス・サービス──個人経営の弁当屋なんて零細な企業にお鉢がまわってくるわけがない。
 あとは──……、
環状線の利用者自体が少ないというのもありますし」
「そうなのか?」
「はい。少なくともごくごく普通に一般社会に生きる、ごくごく普通な一般庶民には縁遠い代物ですよ」
 それは何故か。
 単純な話。理由はふたつ。問うタツに、返すルドルフ。二人の間に、言葉が交換されて。
「その必要がないのと、高価なのと。これまたどちらも、ごくごく普通の理由ですよ、いやはや、まったくもって」
 ルドルフは、自分の言葉に納得したように頷いた。
 駅で、切符を手に入れること。そして列車に乗ることなんてまさしく、一生に一度というほどのものなのだから。
言われてみればヒワも、弁当を届けたりはするけれどそれを買ったり、実際に食べたりする旅客を見たことはないなあ、と思わないではなかった。
……家業だというのに、何をやってるんだか。自分で自分に、心中でほんのちょっぴりだけ非難を向けてみる。向けながら、ふたりの会話に耳を欹てる。
タツくん。あなたの見てきた世界ではどうだったのか、私は知りません。けれどこの世界では、そういうものなのです」
 良きにしろ、悪しきにしろ。猫はさも、そう言いたげに。そして、満足げに。
「この世界で生まれて、大旦那さまや、亡くなられた旦那さまたちと様々に物事を見てきた私ですが……あなたはまるで私と正反対ですね」
 自分自身と、青年とが『まるで違う』ということ、それ自体を噛み締めるように、言葉遊びを繰り返す。
「ずっと私は、『此処にいた』」
 ルドルフは、この世界に。
「あなたは、『此処ではないどこか』を知っている」
 そんな青年が、ルドルフとヒワの前にいる。
「知っているけれど、時々驚くほど、あなたは『何も知らない』」
 ──非常識と呼べるほどに。
 けれどそれでも、この世界は、この家には、タツという青年が確かに存在している。生きていくことが許されている。
「かといって、私もまたあなたの知っているものを、知っていたり知らなかったり。不思議なものです」
 あなたは一体、どこから来たのでしょうね? そのルドルフの問いは、タツのみが答えを知る。ヒワにも、ルドルフにもわからない。
「──昔の人が言ってたって、学校で習ったな。人生はどこから来て、どこへ行くのか、なんて疑問」
 我生何処来、 去而何処之。
「え? え?」
「おや。これまた初めて聞く言葉だ」
 冗談めかしているつもりなのかそうでないのか、ヒワにはよくわからなかった。
 ただ、言ったタツも、驚いてみせたルドルフも。ともに口許を笑みに歪めていて。ヒワはそれらを見比べて。
「きみは」
「えっ?」
「社長──いや、その。ヒワちゃんは、大丈夫かい? これから。もうすぐ、イティさんがいなくなったとして。どこに行くのか、行けるのか。不安じゃ、ないかい?」
 そして目が合ったとき、タツから不意に問いを投げかけられた。
 いなくなる、お祖父ちゃんが。この家から、この世界から。言われてみてはじめて、ヒワは気付く。
「悲しかったり、辛かったり。大丈夫かい?」
 実感が、まだないということに。
 だから当然に応えは、
「……よく、わかんない」としか、言いようがなく。
 そうか、いなくなるのか。
 いなくなると、そもそもどうなるんだろう。この家は、ルドルフとタツ以外は、たった二人。周囲を客観的に見れるくらいの頃には既に両親もなくて、血の繋がっているのはここではお祖父ちゃんとあたしだけだったから。
 それが、半減する。今度も。四人が二人になったように、二人が、独りに、だ。
──あたしだけになるんだ。思っても、反芻してみてもやっぱりその実感というものは湧かなくて。
 もやもやした感情が喉の奥にひっかかって、とれない。
 果たしてその煮え切らない気分は仕方のないことなのか、悪いことなのか。その判断もヒワにはつきかねる。
「うん、やっぱり。よくわかんない。けど」
「けど?」
 間もなくであろうそのときがやってきたらやっぱり、寂しかったり、悲しくなったりするのかもしれない。しかし今率直に言葉として浮かび、口にできることといえば、ただ。
「いなくなったあとお祖父ちゃんは、どこに行くのかな、ってさ。思うんだ。……能天気なのかな、あたし」
 その疑問くらいのものだった。それ以上が、でてこない。
 きっと、多分。『まだ』。
「そんなことはないですよ。すべては時とともに。時が運んでくるまでは、感情だってわからないものです」
 物語の続きが、語られるまでは予想するしかできないのと同じです。──そっか。
「だから、聞かせてもらいましょうか。続きを」
 ヒワの納得のあとに、ルドルフが求めたのはタツの返事。そして、彼の話の続き。
「……あんた、タツの話に色々文句があるんじゃなかったの」
「ええ、そうですよ」
 正直、意外この上なかった。
 あれだけ、ここが変だだの、あそこがおかしいとつっこみを入れていたくせに、何を言ってるんだか。
「だったら、なんでさ」
 子供たちより一足先に、続きを聞かせてくれ、教えてくれだなんて。
 でも、ルドルフはこともなげに、涼しい顔で応じ返す。目をぱちくりさせているタツにも、呆れたヒワの声に対しても揺るぎなく、当然だと言わんばかりに。
「……ルドルフ、きみは雌猫だったかい?」
「何故です?」
「いや……これっていわゆるツンデレかな、と一瞬思って。雄からだったら男同士ってのは趣味じゃないし」
「なんですか、それは。また聞いたこともない単語を、さらりと吐く」
 身体は小さくてもヒワの十数倍は生きているその猫は、やれやれと溜息を吐いて、教師が子供に教えるような口調と発音とで、続けた。
「奇しくもあなたの語るお話が、その部分だけはとても忠実に伝えているでしょう」
 なるほどたしかに、ヒワの脳裏を掠めていったそのとおり。十数倍の年月、それは伊達ではない。
 にやり、と擬音がつきそうな、そのくらい。
老猫の顔に浮かんだのは、ヒワよりもタツよりも、ずっとずっと年長者の、そんな深い笑みの皺だった。
「猫とは、好奇心に満ちた生き物なのですよ。古今東西と、現実非現実を問うことなく」
 それはそんな、余裕たっぷりの催促。

 想像通りというか、その範疇内に収まった落胆を言うべきかはわからないが、チップというやつはたしかに、スズメだった。
 別に、コロにとってはそれ以上でも、それ以下でもない。
 今まで話していた相手の顔をようやく見た。見れる体勢に戻れた。その相手がスズメだというのはあちらからの自己紹介でとっくにわかっていたことだし、言った内容に嘘偽りがなかったというだけの話だ。
「ああ、汚い」
 もともとスズメなんかに、コロは興味があったわけではない。
 行きがかりの上でのことなのだ、みんな。だからそのスズメの顔を見て思ったことは、まるきり率直そのものに「ああ、スズメだな」ということと、左の目の下あたりに、小さな赤い傷痕が残っているな、というくらいだった。
 そんなものよりもずっと、汚れてしまった自分の毛並みを毛繕いしてきれいにすることのほうが、コロには大事だったのだから。
 ああ、ここも。ここも汚れてる。ほんとうに、泥だらけになってしまって。
「コロさんや。せめてまず、お礼くらい言えないもんかね」
 それに夢中になろうとして、チップが呆れたような視線で、やはり呆れたように吐き出すのに気付く。
「特にテツさんは子供が熱を出して寝込んでるってのに、無理を言ってきてもらったんだからね。きちんと、感謝しなさいよ」
「わかった、わかった」
 あと、それとモグラだ。
 穴を広げて助け出してくれた恩は理解しつつも、……なんだろうなあ、この生き物は? という思考がコロの脳裏には先立っていた。
 おかしいなあ。たしか、人間たちの見ていた映像だと、もっと鼻面が大きくて、真っ黒なサングラスをかけていたと思ったのだけれども。──コロは知らない。自分の中でそうやって「モグラ」として定義されているそれが、本物を戯画化した、実写ではなくイラストの産物であるということを。
 つまり彼女は、正確な「モグラ」というやつを目にするのは生まれてこの方、対面としても映像としてもはじめてであったわけだ。
「べつにわしはええけどねえ。弱肉強食が世の常なんはわかるけど、無事に越したことはないんやし」
「あら。テツさん、甘いんだねえ、そういうとこ」
「明日は我が身、助け合いもたまにはええもんよ」
「いやあ、寛大」
 ぺろぺろと、舌先を使って毛繕いをしながらコロは、一羽と一匹の織り成すそのやりとりをしげしげと眺める。
 これが。このふたりが、「チップ」と「テツさん」。
 そして。
「見てごらんなさい、フィガロ
 眺めたその動作を止めず、上へ。そこには、先ほどまでずっと見る羽目になっていた泥臭い土とはうって変わった爽やかな色が全面にある。
 塀は、背中の向こう側に。つまりはその中にある、コロが今の今まで寝食のすべてをそこで送っていた家も、同じく。
 その外へと、コロは出た。出たのだ。もともと想定していた、考えていたやり方とはまるきり、方法は違っていたけれども。
 イの中のカワズ──蛙なんかじゃ、もうない。
フィガロ? そういえばさっきも言っていたね、フィガロって誰だい」
 そうだとも、首を傾げているこの一羽と一匹が証人──いやいや、証「スズメ」であり、証「モグラ」なのだ。
 塀の外へ。外の世界へ。出られた。間違いなく。
 中と、そして外とを隔てていた壁を超えてやったのだ。
「とってもいけすかない、気取った猫よ。鳥類さん」
 彼の鼻を明かしてやった。さきほどまでのパニックがその有頂天によって、いとも容易くコロの心から抜け落ちていく。能天気な軽口さえも、ほいほい出てくるほどに。
 まだ肝心のフィガロへと、外の世界での自分を見せつけたわけでもないというにも関わらず、得意は満面に広がっていく。
「ふうん、そうかね」
 その豹変ぶりに、チップが呆れたような声をあげても。コロは、気付かない。
 さすが私、とばかりにひとしきり、助けてもらわなければ前進も後退もできなかったことすらすっかりどこかに追いやって、自画自賛の美辞麗句を脳内に並べ立てる。
 さあさ、フィガロ。はやくいらっしゃい! そして私を侮ったことを後悔して、しっかり見直しなさい!
 いやいや! むしろ、行ってやろう! こちらからじきじきに会いに行って、自慢してやるのだ。そうだ、それがいい。せっかく行動を起こしたのだ、もっと、前へ、前へ。このコロさまは斜に構えたりしない、まっすぐで、アグレッシブな猫なのだ。よし、そうしよう。
 だから。
「さ、案内してちょうだい」
「どこに?」
 決まっているじゃないか。そこから自分の出てきた家を、その門を、塀を。そこへ出てきたその世界を──アスファルトと土と叢とが点在する道を、小高くなった丘をぐるりと見回して、当然のように言う。
「もちろん、フィガロのところよ。当たり前でしょ。ほら、はやく」
「いや、何が当たり前なのかよくわからないんだが。大体」
「大体?」
「俺もテツさんも、そのフィガロとかいう猫に会ったことも、どんな猫かも知らないんだ。どこにいるかなんて、わかるわけがないだろうよ」
「んだんだ」
 ぱちくり、コロは瞳を瞬かせた。
 瞼を、開けたり閉じたり。
居場所がわからない、だって? それはコロにとっては、まったく予想だにしていなかった応えだった。
でも、向き合う二種類の生き物にとってはそうでないらしく、チップの言に訛りのきついモグラは、しきりに頷いて彼への同意を示している。
──ぶおん!
「ひゃん!」
 ひょっとするとそれは、「ばおん」だったかもしれないし、「ぷおん」だったのかもしれない。きょとんとしてチップたちに目を向けていたコロの鼓膜を突然に、不意打ちするようにその音は襲って、間抜けな声をあげさせた。
 大きな、自然のものではないとすぐにわかる唸り声のような音。背筋を一瞬強張らせたコロはそれに対し、ワンテンポ遅れて聴こえてきたその後方へと首を回していく。
「な、なに……?」
「なにって。電車だろ」
「電車……?」
「んだ。ありゃもうすぐ来るからどいてろ、っていう警笛だねぇ」
 こっちこっち、と尖った爪の先でモグラが手招きをする。
 彼が導くのは小高く緩やかにカーブを描き放物線を描いた、先ほどコロもその存在を確認した丘の上。
 チップが軽く羽ばたいてテツさんへと続き、コロもそれを追う。
 コロの巨躯といっていい身体でも、貧困な体力でもさして疲れることもない、とても緩やかな坂だった。一面が雑草に覆われて、ところどころに人間たちの捨てていったのであろう空き缶や紙くずなどが、頻繁というほどではなく散らばっている、それは緑の丘。
 テツさんとチップに続いて、コロはそれを、登りきった。
 勾配はさほどでもなかったはずなのに、最後の一歩の直前で後方にふと振り返ると、もう先刻までいたコロの家は屋根を見下ろすことができた。
 チップやモグラさんのペースにあわせたからなのかな、と一瞬思った。そして、コロは丘の上に身を乗り出した。
「おや。──これは、意外なお方の到着だね」
 そこに、フィガロがいた。……いや、それ以上に。
「ミス・コロ。ごきげん麗しゅう」
 目を、奪われていた。
 広がる眺望に。こんなに広いのは空くらいしか知らない、というほど一面に広がるその光景に、コロは息を呑んだ。
「きみが見ているのはあの川かな? それとも、人類の発明した果てしなく長く続く、線路とその駅か」
 大きな水の流れが、まっすぐに伸びている。
 向こう岸は、ずっと遠くて。点々と見えるのは畑や、田んぼや。人間たちの住む家々。
 更にその向こう側に、ひと筋の「線」が川と平行して存在している。
 この、コロのいる場所からでは一本線にしか見えないそれは、金属と金属で組み上げられた、大地の上を走る骨組み。
 フィガロが今言った、線路。川の果てが見えないのと同じく、またそれも、どこまで続いているかなんて、ここからじゃ見えやしない。
「線、路?」
 そこを、走ってくる。線路の上を、滑るように。
 紅い。長いそれが。がたん、がたんと等間隔のリズムを刻みながら。
「東京行きの列車が、もうすぐやってくるね」

 そこまで言って、ひと息ついて。タツは向き合っている一人と一匹とが、奇妙な顔をしてこちらを見ていることに気付いた。
「──トウ、キョウ」
 ヒワが、ぽつり。そしてルドルフも、また。
「トウキョウ、ね。その地名を敢えて選んだ理由でも、なにか?」
「え? いや、別に。ちょっと」
 さして深い理由はない。ただ、単純に。
「僕の生まれた地名が、『東京』っていってさ。ただそれだけ」
 そう、それだけのこと。
 深く説明するようなことではない、そのままタツは過ぎ去ろうとする。腰の折られた話を、続けようと。
タツくん」
タツ
 しかしそれは、できなかった。一人と一匹が彼に、させなかった。
 なぜならば。
タツ、あんた。──トウキョウの、出身なの?」
 彼の生まれ故郷を、ヒワとルドルフが知っていたから。
 さも知っている。そんな文脈の言葉を、ヒワが吐いた。
 聞き間違えたのかとさえ、まずは耳を疑った。どうして、という思いは瞬間では声にもならなかった。
「あなたは、トウキョウから来たの?」
 ヒワが、再度言う。
 彼女もルドルフも、驚いているわけではけっしてない。「そうなのか」──そんな、なるほどといった風情の心をその顔に、声に表していて。
 ようやくタツは、
「どうして」
 ──と言った。言うことが出来た。驚きというその総量だけで言うならば間違いなく、タツの受けたもののほうが遥かに多く、大きく。
「え、だって」
 意外な再質問だったのだろう、ヒワが目を瞬かせる。彼女とルドルフとが顔を見合わせ、やがてルドルフが腰をあげる。
 猫は軽やかにソファの背と、戸棚の上とを渡り継いで、いくつもの書物が背表紙をこちらに向けて置かれた事務机の上へと着地する。
 前足を器用に使って、そして一冊の本を彼は立ち並ぶ中から選び、引き出した。
「どうしてもなにも、ないでしょう。トウキョウの出身だというなら、はじめから言えばいいではないですか」
 金文字で描かれた題名は、グリムで用いられる年号のうえで本年度を表し、またそれが列車の運行状況を伝える時刻表であるということを伝えている。
 取引先より贈られたその時刻表をルドルフの前足が、めくっていく。最初の数ページ。数字や文字の羅列されたそこではなく、一種グラフらしくも見えるそれは、いくつもの駅の名が順に記された路線図だった。
 そしてその見開かれた路線のページの右隅に、小さく。広い広い環状線図から、少し外れて。
「トウキョウ。終点であり、始発の駅ですね。随分遠くからいらしたものです」
 たしかに、東京の名はあった。
「ほんと。一体どのくらいかかったんだか」
 けっして、漢字ではなく。グリムの公用語による筆記であったとしても。
 そう読める、その地名が。
 
 
(つづく)
 
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